ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

ピアノが上手くない大人は独学はやめておいたほうが良い理由(ショパンのワルツ7番を弾いてみた結果)

ピアノが上手くない大人、これずばり自分の事です。

今日はそんな「ピアノが上手くない大人、初心者は独学は止めておいたほうが良い」という話を自戒を含めて書きたいと思います。恥を忍んでショパンのワルツ第7番嬰ハ短調(op.64-2)の動画もアップしました。

ピアノを弾く人

 

独学でもいいじゃん、楽しければ

「独学でも自分が楽しかったら良い」僕も長年そう思っていました。実際にジャズとかポップスのピアノを弾く人の中には独学でピアノを学んで、驚くべき音楽を聴かせるプロが存在します。

また、大人からの独学ピアノでは、「どうせ人に聴かせるわけじゃないんだし、自分が楽しめればいいんだ」という人もいます。
僕は小さい頃にピアノを習っており、大人になってからピアノを再開した所謂「再開組」というやつですが、一時期はこのように考えておりました。

「今更やったって、プロになれる訳ではない、自分の楽しめる範囲で、自己流で弾いていけばいいんじゃね?」

という感じですね。

ある意味、これは真理です。何故なら、「ピアノを弾くことが苦痛であってはならない」からです。これは絶対的な真理であると僕は考えます。まずは「弾いている自分が楽しむ」という事を考えないと、本当に良い演奏ができないのです。

 

自分が楽しんで弾けていない演奏は「やれ」と言われてやる勉強と同じでその場では良い成績を取ったとしても、自分の中で勉強に対する興味が薄いために、その後の応用力が全然つきません。

余談ですが、世の中の「親」と呼ばれる人の中には「勉強しろ!」と子供をスパルタ教育する人がいるかと思いますが、その子が勉強することに興味を覚えているならそれはOKなのですが、興味が無いのならば、怒られた時点での成績が良くなるだけで、応用力は身につきません(また、こういう親に限って一つのテストの成績で一喜一憂する)。もっと上手く子供の知的好奇心をくすぐる方法で教育するべきです。

 

閑話休題、大人になってピアノを始めたい、または再開したいと思っているならば、「ピアノを楽しめる素質が元々ある」という事です。このあたりについては心配しなくてよいでしょう。

問題は、独学で続けるか、それとも教室等に習いにいくか?です。

僕は独学でも良い、という人の気持が痛いほどよく分かりますが、下記のような事がありました。そして、今現在、ピアノの先生を探しております。

 

 

youtubeに上げたショパンのワルツにダメ出しされてしまう

まずは、現在ピアノ独学中で、いつまでたっても初心者止まりの僕のショパンのワルツ第7番嬰ハ短調作品64−2をご視聴下さい。

www.youtube.com

 

さて、このワルツですが、正直に言いましょう。僕は結構自信がありました。途中に弱音ペダルを踏むのが遅れたり、最後の方でミスはしているものの音も拾えているし、些か速いかな?とも思いましたが、ディヌ・リパッティとかもこの位のスピードで弾いているし…。

ところが、これを見たあるピアノの弾けない友人が、

「なんか、一本調子の曲だね、退屈だよね」

と言ってきたのです!

僕はなぜ、そんな事を言うのか!と憤慨すると同時に、「やはり、バレるのか…」と思ったのです。友人にそういうふうに言われる事を、僕はどこかで「知っていた」という事です。

つまり、僕は自分の演奏を完璧にした!と思っていたのですが、心のどこかに「譜面の読み込みが足りない、練習量が足りない」という事を自覚していたのです。

この友人はピアノが弾けないですが、物凄く勘が良いところがあり、実に的を射た発言をしてくれます。恐らく、ピアノの先生とか、ピアニストが聴いたらもっと酷い評価を得られるでしょう。

自分でも分かっていました。もしこの演奏をピアノ教室で弾いたら先生に「顔洗って出直してこい!」と言われるレヴェルの演奏である事を…。

 

 

 

演奏のどこが悪いのか?分析してみる

 
形式を理解していない

このショパンのワルツは大きく捉えるとA-B-C-B-A-Bというカタマリで捉えることができます。

 ショパン ワルツ集(遺作付) 解説付

Aはマズルカのリズムで、物悲しい、高貴なイメージ、Bは流れるような下降音型と上昇して解決する部分が2回繰り返されます。中間部Cは落ち着いた、夢見るような束の間の喜びのイメージ。

こういった形式を大まかに捉えて、演奏方法を吟味する、という事が僕の演奏では抜けています。いや、自分でも「大まかには」理解しているつもりでした。しかし、こうして自分の演奏を客観的に聴いてみると、「理解していないで、一本調子で弾いている」ように聴こえます。

つまり、形式を理解する、という事は「ただ、なんとなく」という意識では足りず、キッチリと確認して、その変化を演奏に反映するべきです。

 

 

形式を理解して、弾き方を変えるという事が出来ていない

上記の事が分かったら、演奏に変化をつけるべきです。

例えば、このワルツでは「B」の部分が3回出てきます。Bの中に同じ音型が2回出てくるので、全体としては2×3回の、同じ音型が出てくる訳ですが、この音型を皆同じに弾いてしまったらつまらないし、一本調子になると思います。それはショパンの本意ではないでしょう。

僕も弾いているうちに「なんとなく」その事は気づいていましたが、この「なんとなく」というのが曲者で、なんとなくではダメなのです。きっちり「どのように弾くか」という事を設計して弾き分けないと、このような一本調子の演奏になってしまうのです。

 

youtubeを漁ってみたら、面白い演奏があったので、ここに貼ります。変人ピアニストであるシプリアン・カツァリスの、へんてこな演奏です。

www.youtube.com

Bの部分のみならず、再現されるAの部分まで、弾き方や、強調する音を変えて弾いています。本当に僕の弾いている「ショパンのワルツ7番」と同じ曲なのか?と思わず楽譜を確認してしまうレヴェル。

常人には到底無理な芸当ですが、トリッキーで変態な演奏ながら、感嘆するのみです。ピアニストって本当に凄いですね。

 ショパン:ワルツ集

 
一つ一つの音に対する敬意が感じられない

僕は「うるさい音、びっくりするくらい大きな音」が嫌いです。仕事中でも電話がいきなり鳴るとびっくりします。

そんな自分が出している音に関しては無頓着である事に、自分の演奏を聴いて気づきました。「自分は感受性が豊か」と思っていた過去の自分をぶん殴ってやりたい気分です(笑)。

先程のシプリアン・カツァリスの演奏を聴いているとピアニストは「自分の出している全ての音を把握している」という事に気付かされます。僕の演奏はこれが出来ていないです。全ての音を把握した上で、低音と高音のバランスや、強調すべき音、リズム等々に注意を払うべきです。

 

 

↓ピアノ初心者にオススメの指練習教本 

 

 

ピアノを先生について習えば解決するか?

 

ずばり、ピアノ教室に通って習えばこれらの問題は解決するか?と言われれば、実際は本人のやる気に大きく左右されると思います(牛を水飲み場まで連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない)。

しかしながら、僕のような曲の構造分析が出来ない人、もしくは曖昧な人で、上手くなりたい人は是非とも習いに行くべきです。

もしくは、僕のように自信を持ってyoutubeにアップしたが、「弾けてないじゃん」とか言われてしまう人は習いにいくべきですね。客観的に自分の演奏が聴けていないからです。

 

僕も過去に大人になってから先生に2回ついて習ったことがありますが、まず、緊張感が違います。独学だと弾き飛ばしてしまう音の一つ一つがピアノ教室で先生の前だと、「聴かれている」というある種良い意味でのプレッシャーによって音に磨きがかかるのです。

曲の構造についても、良い先生であれば的確なアドヴァイスをしてくれると思いますし、初心者であれば難関である左右の手を使って弾くとか、そもそも音符の読み方が分からない、というところも教えてもらえるでしょう。

個人的には「自分の個性的な演奏」というものができるのは、そのような手ほどきを受けた後に自分で演奏について深く考えてから初めて「出来るかも」と思えるレヴェルのものだと思います。

あと、独学でやっているよりも、ピアノ教室に通うほうが実は楽しい、という事も多々あります。それは人前で演奏できる喜びです。先生の前で自分の音楽を聴いてもらう喜び、或いは発表会で聴いてもらう喜びですね。

ピアノ教室によっては「ピアノ発表会」が無い、他の生徒との交流が無い、というところもありますが、できればピアノ発表会とかには参加したほうがよいです。たとえ下手だとしてもとても良い経験になります。僕も何度か小さい子供に混じって、ピアノ発表会に出た経験があります。

発表会の様子を、またの機会に是非書きたいと思いますが、出番の直前にステージの袖からみる、スポットライトに照らされた黒くて大きなピアノの恐ろしさや、名前が呼ばれて眩い光の中の舞台に歩を進めていく感覚、これから自分の音楽を聴衆に届ける事ができるか?という不安、暗譜は飛びはしないか、という不安、自分の解釈を見せつけてやるぞ!といった山っ気…色々な感情が交錯し、なんとも言えない感覚になります。

そして弾き終えた時にもらえる拍手、これらはかけがえのない経験となります。

 

 

 

ピアノはコミュニケーションの手段

ピアノを弾く二人の少女

最後に、ピアノ教室に行く意義、それは「音楽は一人でやるものではなく、コミュニケーションの手段である」という事です。一般的なピアノ独奏は一人でやるものですが、聴かせる人や、聴いてくれる人がいないと、それは「音楽ではない」といってもよいのではないでしょうか?

独学が許されるのは、ピアノ上級者で、楽譜の分析(アナリーゼ)が出来る人で、かつ自分の演奏をどこかで聴いてもらう機会がある人に限られます。

僕のようなさして上手くない、中途半端な分析しか出来ない、聴いてくれる人がいない人は是非ともピアノ教室に通って自分の演奏を誰かに聴いてもらいましょう。

実際に高名な中堅ピアニストであっても、未だ先生に師事してピアノの腕を磨いている、という話をそこら中で聞きます。ピアニストでさえ先生について習っているのです。

ピアノ初心者や、中途半端に弾いている人が習っていないというのはある意味ナンセンスでしょう。

 

過去記事を参照してもらえば分かると思いますが、そういう自分自身、まだピアノ教室に通えていないですが(汗)…。今年こそは良い先生を探してピアノ教室に通いたい、と思います。

 

指の力を鍛えるためにはこちらの記事もおすすめ↓

 

piano6789.hatenablog.com

 

 

 

読んでいただきありがとうございました。

 

使用した楽譜はこちら↓ 

 

電子ピアノを見てみる↓

 

 

「題名のない音楽会」に出演した森下唯氏と福間洸太朗氏のピアノ演奏を聴いて

以前のエントリ「NHK-FM きらクラ!に森下唯さんとピアニート公爵が出演した感想」で、森下唯さんと生き別れの弟であるピアニート公爵の弾くアルカンの「鉄道」について書いた訳ですが、本日(2017/01/15)のテレビ朝日の「題名のない音楽会」に森下唯さんと福間洸太朗さんが出演して素晴らしいピアノの超絶技巧を聴かせてくれたので、その感想を書きたいと思います。

目次

 「題名のない音楽会」この日のプログラム「難しいピアノ曲を弾く音楽家たち」

  • ♪1:「チョップスティックス ハンガリー狂詩曲風」より

    編曲: 萩森英明
    ピアノ連弾: 福間洸太朗 / 森下唯

  • ♪2:「火の鳥」より『凶悪の踊り』

    作曲: I.ストラヴィンスキー
    編曲: G.アゴスティ
    ピアノ: 福間洸太朗

  • ♪3:練習曲「鉄道」

    作曲: C.V.アルカン
    ピアノ: 森下唯

  • ♪4:「イスラメイ」(東洋的幻想曲)

    作曲: M.A.バラキレフ
    ピアノ: 福間洸太朗

(以上、題名のない音楽会公式ウェブサイトより引用)

 

まず「難しいピアノ曲を弾く音楽家たち」という副題の付け方が素晴らしい。いかにも僕のような「難しい曲は弾けないが難しい曲に憧れを持っている自称ピアノ弾き」が視聴したくなってしまう内容ではないか!

また、難しいピアノ曲は得てして「演奏効果が高い、聴衆を熱狂させる」ようなタイプの曲が多いので、一般のクラシックを聴かない層にも浸透すれば良いなぁ、と思って見ていました。

 

森下唯さんの演奏は以前のエントリにも書いた通り、生演奏は聴いたことが無いですが、ニコニコ動画や、ピアニート公爵名義のCDでその演奏に触れていたので、その超絶技巧っぷり、ヴィルトゥオーゾ全開の演奏を期待していました。

 

福間洸太朗さんに関しては2009年に与野にある「さいたま芸術劇場」で生演奏を聴いた覚えがあるのですが、端正な演奏だった事は覚えているのですが、曲目は失念しました。おぼろげながら今回のプログラムにある「イスラメイ」を弾いたような気がします。

ただ、その時感じた僕の主観的な感想の記憶は強く残っていて、それは名前に「洸」という美しい文字があったから。当時帰りの電車でプログラムを見ながら思ったことは「この、洸という文字通り、まるで綺麗な水を通ってきた光のイメージの演奏だったなぁ」という事です。

洸という字のイメージ

(「洸」という文字で勝手に↑のような映像を想像した)

 

こんな感じで、両者の演奏をかなり楽しみにしていました。

以下、曲目ごとの主観的な感想です。

 

チョップスティックス ハンガリー狂詩曲風

この曲はよく小さい子供が弾いている、指一本で弾ける「チョップスティックス」をリストのハンガリー狂詩曲風に連弾アレンジしたもの。森下氏と福間氏の連弾です。

お二人とも指慣らしといったところでしょうか。僕のような素人が練習してもできないようなパッセージをさらっと弾いてくれます。森下氏が最初上声部を弾いていて、途中移動して下声部を弾き始め、面白い曲だなぁと思いました。 

 

火の鳥」より『凶悪の踊り』

福間氏の演奏。超絶技巧満載の演奏でしたが、不思議に耳障りな、うるさい音がしない。この曲は元来オーケストラの曲なのですが、オーケストラの楽器毎にピアノの音色を変えるというすごい技をやってのけました。両手跳躍で離れた音を出すときに腰を浮かしていたのが印象的でした。やはり、ピアノというのは身体全体を使って弾くものだと、改めて感じました。

驚嘆すべきテクニックでしたが、それ以上に音楽性や、感性の素晴らしさを感じました。 

 

練習曲「鉄道」

森下氏の演奏。以前のエントリ

 

piano6789.hatenablog.com

 にも書いた通り、この世の中で出回っているアルカンの「鉄道」の演奏の中で最高の演奏だと思いました。技術が足りない事によってゴツゴツしてしまうという部分がなく、さも当たり前のように滑らかに演奏が進んでゆきます。アルカンの時代ののどかな鉄道の表現に加えて、現代的な「新幹線、或いはリニアモーターカー」のようなものも連想させました。

全体的に右手が16分音符の無窮動なのですが、左手の同音連打も驚嘆すべきテクニックですし、最後の方の「鉄の塊が突き進む様子」の部分は鬼気迫る何かがありました。

アルカンも引きこもりのオタクだったそうですが、そのアルカンへの愛を熱心に語る森下氏にも良い意味で「オタク」的な部分が見て取れました。

 

司会の五嶋龍さんも「申し訳ないけれど、さっきから笑いが止まらない」と言っていましたが、確かにそれほど素晴らしい超絶技巧でした。

福間洸太朗さんも森下唯さんも「超絶技巧をツールにして音楽の表現、本質に迫る」という意識をもっており、賞賛すべき点だと思いました。

「イスラメイ」(東洋的幻想曲)

福間氏による演奏。
まず、この曲が古今東西の難しい曲トップの部類に入るにも関わらず、聴いている方は良い意味で難しさを感じませんでした。あまりに難しいことを平然とやってのけていることと、第一に音楽の表現を優先させている演奏であったからです。

まず、フレーズとフレーズの間にある「間」のとり方が絶妙でした。ブレス(呼吸)ともいいますか。あと、静かになる部分と動きのある部分の対比の表現。非常に冷静にこの曲を観察し、表現したとても端正な演奏でした。

余談ですが、オクターブのグリッサンドをやっている人を上からの映像で始めて見ました。 

 

 

最後に|ヴィルトゥオーゾとは何か?両者はヴィルトゥオーゾか?

 

 ヴィルトゥオーゾのピアニスト

ヴィルトゥオーゾ(ヴィルトゥオーソ、名技的巨匠)という言葉で僕がイメージするピアニストはヴラディーミル・ホロヴィッツです。超絶技巧の持ち主で、カリスマ性もあり、聴衆を熱狂させる音楽をステージ上で創造できる人々。時として楽譜を書き換え、演奏効果を最大にする人々。多少のミスさえも音楽の中に溶け込み、バカでかい雷鳴のような音から、ささやくようなピアニッシモまでダイナミックレンジが広い人々。

(全くの私見ですが、ホロヴィッツの他に、現代だとヴォロドス、カッアリス、ランラン、ユジャ・ワン等がこちらの部類)

このような人々の弾くコンサートやCD等を聴いていると、胸がスカッとして、やはり熱狂します。
変な例えですが、「ロックコンサート」のようなものを聴くイメージでしょうか?
アッパー系の脳内物質が分泌されるような気がします。

 

ヴィルトゥオーゾではない感性系ピアニスト

対して、以前のエントリ(2016.11.23 「彼は正統派か?」アンスネスのピアノリサイタルの感想(於:所沢アークホール) - ミヤガワ日記)に登場したアンスネスなどは、技巧は完璧ですが僕はヴィルトゥオーゾでは無い、と考えます。彼はまず「音楽そのもの」について考える人で、聴衆が喜びそうな、恣意的なフォルテシモを出したりはしません。楽譜も考え無しにはいじりません。
職人的、感性系といってよいかもしれません。

(全くの私見ですが、アンスネスの他に、ペライア、シフ、ルプー等がこちらの部類)

このタイプの演奏家の演奏を聴いていると、作品の解釈に感心することが多いです。静かな興奮とでも言うのでしょうか?
ダウナー系の脳内物質が分泌されるような気がします。 

 

森下唯氏と福間洸太朗氏のピアニズム|新しい時代のヴィルトゥオーゾと感性系

ヴィルトゥオーゾ系、感性系と、数多いる音楽家をその演奏スタイルで2種類にカテゴライズする事は到底できませんが、至極大雑把に代表選手を私見で上げてみました。

そして、僕はこのどちらのタイプも好きです。時と気分によって聴く方を決めます。

 

ヴィルトゥオーゾピアニスト

 

では、森下唯氏と福間洸太朗氏はどのようなタイプのピアニストなのか?まず、二人の共通点(というか、特に日本の現代演奏家の共通点)として言えるのは「技術は完璧」という事です。

その昔、アルフレッド・コルトーが来日してコンサートを開いた際、聴いていた音大生が「私のほうがうまく弾ける!」と言ったそうですが、確かに往年の名演奏家の中にはミスタッチが多かったり、演奏にムラが有る人が多いような気がします(録音技術の発展が関係しているかもしれませんが、コルトーのCDを持っていますが詩情は豊かですがミスタッチ多いです)。
もっとも音大生と名巨匠のコルトーと比較するのは馬鹿らしいことだと思いますが…。

 

現代の演奏家である森下氏、福間氏のもう一つの特徴、それは「一つ一つの音を疎かにしない」という事です。現代の演奏家は細部にこだわりがありますね。多分ミケランジェリや、ポリーニあたりから、その傾向が強くなってきたのかもしれません。

昔の演奏家はもっとノンビリというか、曲全体をマクロな目で捉えて大きく曲想を作っていくというタイプが多い感じだったのですが、今日の演奏家はコンクール等でも精度が求められているためか、非常に精度の高い、ミスの少ない洗練された演奏をします。まさしく「神は細部に宿る」ですね。

 

さて、そのような特徴を備えているお二人ですが、

森下唯氏は「新しいヴィルトゥオーゾ」、福間洸太朗氏は「新しい感性系」と結論付けます(全くの私見です。反論歓迎)。

 

森下氏の演奏は基本的にはヴィルトゥオーゾ寄りの演奏ですが、決して強弱とか表現を疎かにしている訳ではありません。
しかし、アルカンへの愛に溢れる演奏はヲタク的な狂気を感じました。この「狂気=デモーニッシュな感覚」というのは従来のヴィルトゥオーゾピアニストの演奏にもよく見られた感覚です。

 

福間洸太朗氏の演奏は基本的には音楽に寄り添った、感性重視の演奏だったと思います。このことは決して技術が足りないという事を言っているわけではありません。
技術は音楽表現をするための手段であって目的ではない」という事をよく分かって弾いている人という印象を受けました。その上で、楽譜を細部まで読み込み、端正に音楽へと昇華していく様に感銘を受けました。

 

現在の日本には超優秀なピアニストが沢山いますね。とても良い番組で満足しました。

読んでいただきありがとうございました。 

 

 

 森下唯さんの最新アルバム。テレビで披露されたアルカンの「鉄道」も収録されています。

 

福間洸太朗さんの最新アルバム。 

福間洸太朗さんのロシアものアルバム。テレビで披露されたバラキレフの「イスラメイ」も収録されています。

 

パソコンのタイピングがうるさい人はピアノを弾いて矯正して下さい

今年もよろしくお願いします。

新春からこんな記事ですが自戒の意味も含めて書きたかったので書きます。

 

パソコンのキーボード

 

コメダ珈琲店でものすごい勢いでノートパソコンのキーボードを叩く人を見て

先日近所のコメダコーヒに、新しく買ったMac Book Pro 2016 Lateを持っていって(ドヤ顔をせずに)ちょっとした書類を作っていた時の事。

後ろの席の方から、「パチパチパチパチ…ッターン!」というパソコンのキーボードの打鍵音がものすごい音で聞こえてきました。

どうやら、僕と同じようにカフェで仕事をしている人のようで、その打鍵音から察するに、その方のパソコンは僕と同じMac Boook Proの最新版のようでした。このパソコンは、一部で「打鍵音がパチパチうるさい」と不評なのですが、なるほど、こうやって他人がバシバシとパソコンのタイピングを行っている時の音を聞いていると、「確かにうるさいなぁ…」と思いました。

 

そもそも自分も含め同罪ですが、「カフェでパソコンを持ち込んで仕事をする」という事自体悪い事のように言われていますが、それはさておき、「自分のタイピングの音も他人に迷惑を掛けているのでは?」と心配になりました。

そこでその場で、打鍵音を小さくするべく優しくキーにタッチしてみました。

確かに打鍵音は小さくなりました。しかしながら、優しくタッチすると、打ち間違いが多々発生しました。周囲を気にしてキーに付かず離れずの微妙なラインでタイピングしているためか、キータッチで押すべきキーが「抜けて」しまうのです。

下記のように、「n」のキーが打鍵漏れになってしまうために、「しまうのです」が「しまうおです」になってしまうおです。

  • しまうおです。←しまうのです。
  • simauodesu←simaunodesu

このような状況に何度も陥り、その度に打ち直していたので、書類作成に時間がかかりました。

 

 

職場にもいる打鍵音がうるさい人々と、ピアノ音楽表現との共通点

このことがあってから、職場でもタイピングの音が気になるようになってしまいました(仕事に集中しろよ自分…)。

職場のパソコンはデスクトップタイプで、キーボードのキーが深いので、「カシャカシャ」といった音がします。しばらく観察したところ以下のタイプがいたので、ピアノ音楽との関連も交えて、列挙します。

 

  • エンターキーだけうるさい人

いわゆる「ッターン!」という感じで改行キーを叩く人ですね。このような人々は段落の区切り、あるセンテンスの区切りで「やり切ったぞ」的な感じでエンターキーを叩いています。ここでエンターキーはある種、「作業のリズム」を作ることに加担しています。

ピアノ音楽で言えば、最後の音がフォルテで決然と終わる、ある種「英雄的なタイプ」ですね。

下記の画像はラフマニノフの「楽興の時op.16」の4番です。

最後の小節、スフォルツァンドに加え、フォルテが4つもついていますね。曲全体を通してこれ以上の大きな音を出す表象記号が無いことから、盛り上がって「この曲がこの部分で終わる」という事を示しています。

ラフマニノフのピアノ曲

 

  • deleteキー連打、もしくはスペースキー連打する人

とにかく同じキーを連打している人を見かけます。この人々は、タイピングのミスを修正するために猛烈にデリートキーを押して文字を消している人、或いは変換機能がしょぼいのか、目指すべき文字に変換できない人が、猛烈にスペースキーを押して変換文字を探している人です。

いずれもスマートとは言えませんが、強いて言えば、ピアノ音楽で言うところの「同音連打」という事になるでしょうか?

ピアノで同音連打をする時は一音一音指を変えて打鍵するのですが、音が自然と大きくなってしまう場合が多いです。

下記の画像はラヴェルの「クープランの墓」からトッカータです。

最初の2小節は同音連打ですが、これを綺麗に揃えて小さい音(この場合ピアニッシモ)で弾くのは難しいです。

ラヴェルのピアノ曲

 

 

  • パソコンのキーボードに一旦指を滑らせてから打鍵する人

これは僕の職場にいるある女性だけの癖かもしれませんが、パソコンで打鍵する前に一旦キーボード上に「シュッ」と指を滑らせて「リズム」を作っている人がいました(この人はとても性格が良い人なので個人的には許せます(笑))

もし深く打鍵すれば「あqwせdrftgyふじこ」となる、アレですね。

癖なので仕方がないと思いますが、この方もこの動作をすることでキーボードの定位置(FとJに人差し指がくる)を確認して、かつこれから始まる打鍵の準備をする「リズム」を作っていました。

ピアノ音楽で言うところの「グリッサンド」ですね。

下記の動画はプロコフィエフの10の小品op.12より第7番「ハープ」です。
グリッサンドは0:55あたりから)

www.youtube.com

 

  • 最初から最後までとにかく打鍵音がうるさい人

「カシャカシャカシャカシャ…」とにかく絶え間なく大きな打鍵音が、リズムも悪く、強弱も無く鳴り響く…。

これは実は僕の事です(笑)こういった人はまず、「ブラインドタッチ」が出来ていません。いちいちキーボードを見ながら打鍵するので、指の「定位置」という概念が無いのですね。

定位置に指を置いておけば何も指を上から振り下ろさなくても「押し込む」という動作だけで打鍵が出来てしまいます。こういう事が出来る人のキーボードの打鍵は比較的静かで、かつ速いです。

実はこのことはピアノを弾く上で最も重要な事なのです。これが出来ていない人は(僕も含めて)最初から最後まで何の強弱も無いので音楽的でもありませんね。

つまり該当するピアノ音楽は「無し」です。

音楽的でないので絶望する人

 

  • 番外編:打鍵音が全く聞こえない人

キーボードの打鍵音が全く聞こえない人。仕事していないんじゃ?そもそもその人自体が存在しているのか?僕が見ているのは幻か?

強いて言えば音楽で言うところの「ジョン・ケージ4分33秒」でしょうか?(笑)

www.youtube.com

 

 

 

 

 

打鍵音がうるさい人はピアノを弾いて矯正するべき理由

上記にも記述しましたが、打鍵音がうるさい人は基本的にブラインドタッチが出来ていない人が多いです(僕も出来ていないです…ハイ)。

ブラインドタッチの基本は

「指の位置を定位置に置いて、打鍵するキーと対応する指を決めておく事、叩くというよりはむしろ押し込むといった動作に近い事」

だと推測されます。

まさしくこの能力はピアニスト、ピアノを弾く人に要求される能力であり、ピアノを弾く上での基本とされる能力です。

 

 

ピアノ初心者の指の動きを見ていますと、ある音を弾く前にその音の上に指が準備されていない事が多いです。特に跳躍と呼ばれる、今ある手のポジションから離れている鍵盤を打鍵する場合に多いです。

跳躍の音型での初心者の動きは指だけを離れた音に持っていこうとしますが、プロのピアニストを見ると、まず手そのものを離れた音の位置に素早くもっていき、その後安定した指で当該の音を打鍵します。

 

例として、ショパンノクターン第8番op.27-2の第一小節ですが(下記画像)、プロの演奏を見ていると、左手の一音目の小指でレのフラットを弾いた後に素早く手のポジションを右側に移動して、その後、二音目のファの音を親指で静かに打鍵します。

僕のような素人がやると、一音目を弾いた後に親指だけをファに向けて猪突猛進で向かっていってしまい、結果として「大きな、汚い音」が出てしまいます。

ショパンのノクターン第8番の楽譜

 

もう一つ、打鍵をする上で注意があります。出来るだけ鍵盤(パソコンのキーボード)から指を離さないようにする事です。

ピアノ初心者はこれが出来ないことが多いです。ある指を使って打鍵した時に、他の指が鍵盤から離れてしまう事によって他の指による次の動作が遅れるとともに、鍵盤から離れた位置から指を振りおろす形になるので、「大きな、汚い音」が出てしまいます。

 

ピアノを弾く上で大切な基本的な動きは、下記の画像のように鍵盤に全ての指を置いておき、

鍵盤に指を全て置いた状態

 

中指だけ打鍵をしようと思ったなら、中指だけを動かして、叩くというよりはそのまま押し込む感じで打鍵をします。その際、他の指はポジションが変わらないまま、つまり動かさないのです。こうする事で、例えば次に薬指で鍵盤を打鍵するといった際に、薬指が鍵盤から離れていないので遅れず、スムースに打鍵できます。(下記の画像)

中指だけで打鍵した状態

 

もっとも、この動作をマスターするためには「指の独立」が重要です。初心者は薬指とか小指を動かそうとすると他の指がつられて動いてしまったりします。

そこで、以前のエントリーでも紹介した

ピシュナ 60の練習曲 解説付 (坂井玲子校訂・解説) (Zenーon piano library)

 等で練習する事を強くオススメします。

 

以前のエントリー 

piano6789.hatenablog.com

 

(注:もちろんこういった指の動きは「基本」なので、実際にピアノを弾くときには様々な音の出し方、弾き方があります。上から振り下ろして渾身の力でフォルテシモを出す、といった事もあります。しかし、基本的には上記のような動きが出来ないと、ピアノは弾けないと考えます)

 

このように、パソコンのキーボードのタイピングと、ピアノの打鍵には深い関係があります。

どちらも、キーボードなり鍵盤から指を離さず、指が吸い付いたような形が基本となります。どの指でどのキー(鍵盤)を打鍵するかも、あらかじめ決めておきます。 

 

 

スタジオのピアノ

 

 

自分でもピアノを演奏してみた、がしかし…

さて、そんな事も踏まえて、正月の1月2日から、ストイックな僕はピアノのあるスタジオに行って、自分の演奏を録画してきました(暇だという説もある…)。普段は家に電子ピアノしか無いので、スタジオにあるグランドピアノを見ると正月早々テンションがあがりましたよ。 

そして出来た動画がこちら

www.youtube.com

(頑張って犬の絵も描きました。でも今年は酉年でしたね…。ニワトリを描くべきでした)

曲はショパンノクターン第8番 op.27-2です(最近こればっか取り上げています汗)

まぁ、小さい頃バイエルで挫折して、大人になってから再開し、現在独学なのでこんなもんでしょう。恥を忍んで動画をアップしました。

今回、ノクターンという比較的「静かな打鍵」が要求される曲を練習してみて、発見が沢山ありました。

  • あまりにも静かに弾こうとすると、音が鳴らない(タイピングで言えば、タイプすべきキーが漏れる)
  • 素速く指を動かす箇所では、指の独立が出来ていないため音が大きく、乱暴になってしまう(タイピングでも同じ)
  • 全体の構成が頭に入っていないため、次の音を探してしまう(タイピングで言えば、どの指でどのキーをタイプするか決まっていないのと同じ)

まぁ、無理矢理ピアノとタイピングを結びつけた感がありますが(笑)、やはり似ているとも思いました。

 

 

終わりに…もっとしなやかにタイピングを行うためにピアノを弾こう

何というか、タイピングの成果物は「文章」であって、ぶっちゃけ打鍵音がうるさくても周りが認めてくれればOKなわけです。流石にカフェ等では顰蹙ですが…。

しかしながら、ピアノの場合、成果物は「音楽」であり、打鍵の強弱がそのままダイレクトに成果物に影響します。表現とか、芸術といった問題も解決しなくてはなりません。

つまり、ピアノの方が単位時間あたりに処理すべき事柄が圧倒的に多いのです。

 

ここで、今までの事を総括して次が成り立ちます。

タイピングができればピアノが出来るとは限らないが、ピアノが出来ればタイピングが出来る(異論は認めます)

ピアノが出来るようになれば、カフェとかでパソコンを使う時にも小さな音でかつ高速でブラインドタッチが出来るようになるでしょう。

パソコンのタイピングがうるさいあなたも今日からピアノを弾いてみませんか?

読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

対人恐怖症とピアノを人前で演奏することについて

 

この前、社会人ピアノサークルに久しぶりに行ってきました。僕は完璧な幽霊部員で、半年か、一年に一度のペースでサークルに行くのですが、その度に周りの人々のピアノのうまさに圧倒されてしまいます。そして、いつも演奏するときに視野が狭くなり、思ったように音が出せず、無残な結果に終わります。

 

 

ピアノサークルの仕組みを簡単に説明しておくと、スタジオを貸し切りにして、全体時間を演奏する部員の人数で割り、その持ち時間で適当に弾いていくという仕組みです。

演奏中の私語はOKなのですが、凄い演奏の時は私語が少なくなったりします。基本的には「練習会」と銘を打っており、練習中の曲や、譜読み中の曲でも全然発表してOKです。初心者も大歓迎で、ピアノ音楽ならばクラシックではなくても、ジャズでもポップスでもアニソンでもゲーム音楽でもまらしぃ系でもなんでもOKです。

 

僕は今回、ショパンのノクターン(夜想曲8番 op.27–2)を譜面を見て弾いたのですが、まず、ピアノの前にいって、椅子を調節する段階で、既に緊張していました。

 

「ああ、みんなこっち見てる。注目されている、どうしよう?頭のてっぺんからつま先まで見られている、みんな期待しているかな?出落ちだけは避けなければ。さっき演奏した人のドビュッシーの「アナカプリの丘」すげーうまかったなぁ、あのレヴェルで弾かなければ!というか、みんなこっち見んな!」といった妄想をしてしまいました。

人前で緊張する人画像

たかだかピアノサークルの練習会で大げさな!と思う方もいらっしゃるとは思いますが、僕は承認欲求は強いとは思うのですが、極度の緊張症で対人恐怖症なのです。

 

なんとか演奏を始めたものの、ピアノからは普段より大きな音が出てきて、弾いている自分でもビックリしました。グランドピアノだったのですが、普段家では電子ピアノで練習をして、たまにピアノスタジオみたいなところを借りて練習をしていたのですが、あまりにも音をコントロールできなくて次第に視野が狭くなっていきました。

 

ショパンのこのノクターンは大変美しい曲のはずですが、僕の演奏は本来ならば伴奏に徹してあまり大きな音で弾いてはならない左手の音が馬鹿でかくなっていました。そして「表現」なんて言葉は二の次三の次。

 

バスト80、ウエスト80、ヒップ80のような、まるで丸太のような、最初から最後まで強弱をつける事が出来ない演奏でした。おまけに譜めくりする時に、普段であれば広い視野で弾きながらめくる事が出来るのですが、めくる度に止まってしまいました(これは一番いけない)。

 

ある自分で出した音は、音自体は合っているにも関わらず、普段と違う音に聴こえその事が瞬時の焦りにつながり、次のフレーズを間違えてしまい、ペダルも変なところで踏んだり離したり、最後はウナコルダ(弱音ペダル)を踏んだらピアノのタッチが微妙に変わってここでもミスする始末。

そして、当然ペダルを踏む足がガクガクと震えていました。
こんな演奏でしたので、次第に周りの私語が増えていきました。


弾き終えて挨拶をするも皆さんは温かく拍手をしてくれましたが、僕はその後1時間ぐらいはお腹が痛くてたまりませんでした。

 

 

自分のメンタルが弱いことは認識していましたが、まさかこんなにも弱いとは!加えて自分は「こっち見んな」とか「みんな聴かないで〜」とか思っている時点で、表現者、ピアノを弾く人として失格だと思いました。

というか、こういう思考回路は、人間としても失格のような気がするのです。

内気な人間とか気の弱い人間=優しい人
みたいな誤った固定概念がありますが、少なくとも僕の場合、勝手な妄想をして演奏中は他人を憎んでいるわけです。これはちょっと根が深い問題だと思いました。

 

これは何もピアノに限らず、カラオケでも僕は注目されるのが苦手です。人前でのスピーチも嫌いです。他人と他愛ない雑談をするという事でも、よっぽど慣れた人でないと不可能です。

その「場」を支配しているという感覚が、僕にとっては脳の容量オーバーな感じになります。

 

 

以下、対人恐怖症でも人前でピアノ演奏ができるようになるために、ここ数日自分で考えてみたことをまとめます。

 

 

その1.とにかく、練習する

これにつきると思います。練習すれば不安要素が減るのは確かです。しかしただ練習するのではなく、暗譜を意識して練習する、演奏が止まったとしてもどこからでも再開出来るように、頭の中に楽譜を叩き込んでおくことが重要だと思いました。

あとは、効率的に暗譜することにも繋がりますが、「曲の構造を理解する」「曲に対してイメージを持つ」という事が重要だと思います。

「この小節から変ニ長調から変ロ短調に変わる、だからこのアウフタクトの一音目は曲想が変わることを意識して気持ち一呼吸置いてから指を置く」とか、「ここは貴婦人にありあまる恋心を打ち明ける場面なので、フォルテで多少せき込むように」とか、「理論+イメージ」を最大限駆使して、曲を自分のものにしていく過程が必要に思います。

今までの自分はこのようなアナリーゼであるとか、意識的にイメージを持つことをしていませんでした。だから、音楽がすっからかんになり、人前で演奏する時に確固たる信念のある音が出せないために、アガってしまうのです。

 

 

その2.人前でたくさん演奏する

 人前でピアノを演奏することが上手くなるためには、やはり人前で演奏することが重要でしょう。ある意味当たり前ですが、意外とアマチュアのピアノ弾きの方々はここを蔑ろにしているのでは?と思いました。

僕の場合、過去のエントリでも書いた通り、現在ピアノを習っていない独学ですが、早いところピアノの先生に師事したい、と思っております。

はっきり言って、人前で演奏するのと、自宅の電子ピアノに向かって一人で黙々と演奏するのとでは天と地の開きがあるように思います。

緊張する性格であればあるほど、この人前演奏と一人演奏の「乖離」があると思いますが、この差を沢山人前で演奏することによって縮めていくのです。多分人前で沢山演奏することによって、普段の一人での練習のときにも「人前」を意識することが出来るようになり、いっそう集中して練習が出来るようになると思いました。

そういった意味では「ピアノサークル」で緊張しながらも演奏して少し挫折経験を味わう事は必要なのかもしれません。つまり、僕のピアノサークルでの演奏は「人前で演奏する練習の一環」と捉えれば、これを続けていくことで得られるものは大きいと思いました。

 

 

その3.メンタルトレーニングをする(マインドフルネス瞑想、呼吸法等)

今度は方向性を変えて、メンタルトレーニングをする、です。

人前で演奏する、スピーチをする等でアガってしまう人は「緊張していない」と思い込むことで寧ろ「緊張」がクローズアップされてしまい、「緊張」の悪循環に嵌っていく人が多いと思います。

確かに、「緊張」というものは適度に必要だと聞きますが、過度に緊張して今現在自分がやっていることが分からなくなるというのはNGの緊張の仕方だと思います。

google等でも取り入れているとされる「マインドフルネス瞑想」は、「自分の過去や未来を見つめるのではなく、雑念を受け流し、今現在を感じる」というコンセプトとのことです。

これも過去記事

 

 

piano6789.hatenablog.com

 


 

に一部書きましたが、「現在に集中する」ということは、人前でピアノを弾いている時に「ピアノを弾くことに集中する」ということであり、このマインドフルネス瞑想をやることは理にかなっている、と個人的に思いました。実際、眠れない夜などにこのマインドフルネス瞑想をすると、過去の失敗とか、未来の不安を受け流すことができ、よく眠れるようになりました。マインドフルネス瞑想は「集中力がつく」と謳っていますが、集中力がつけば、人前での演奏も「緊張」が気にならなくなると思います。

呼吸法を体得することも重要です。これはマインドフルネス瞑想でも呼吸法が重要なのと同じことです。

ピアニストのイーヴォ・ポゴレリチ(現在、来日していますね)が演奏するブラームス:3つの間奏曲、ラプソディ他

を聴いていたら、フレーズ毎に深く呼吸をしている音が入っていました。当時このアルバムが発売された時は僕も真似してピアノを弾いている時にわざわざ呼吸の音を出してみたりしていましたが、これは理にかなったことだったのですね。フレージング毎に呼吸を切り替えることで集中力が増すようです。

(余談ですが、このブラームスのCDはすごい遅い演奏にも関わらず、一音たりとも疎かにしない集中力が目に見える好演となっています)

 

おわりに

以上3つは自分で調べたり考えたりした「対人恐怖症の人間が人前でピアノを演奏できるようにする方法」ですが、これらの方法を試しつつ、本当に成果が出るかを検証していきたいと思います。
なにか新しい克服方法があったら、また記事を書きたいと思います。

読んでいただきありがとうございました!

 

 

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大人がピアノ教室に通うのは難しい(ある意味続編)。

皆さん、こんにちはこんばんは。以前のエントリー(引用してくださった方、まことにありがとうございます)、

 

piano6789.hatenablog.com

 から、数ヶ月経ちましたが、未だピアノ教室に通えていない状況です(我ながらトロいと思います…)。ここ数ヶ月でピアノ教室探しに奮闘しました。

ここ数ヶ月で体験した出来事を簡単にまとめたいと思います。

 

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1.ピアノ教室に体験レッスンに行くが、即日破門される?

前回、「ピティナで探すと良い」と自分で書きましたが、その前後にピティナを通さずに、地元のピアノ教室に体験レッスンに行くことになりました。女性の先生でしたが、いきなり電話をかけたにも関わらず、「体験してみませんか?」となったので、行くことにしました。

ちなみに「体験レッスン」というのは、独学であれば今現在の時点で自分が弾いている曲を初対面の先生に披露(まな板の上の鯉的な…)し、アドバイス等をもらい、お互いのフィーリングが合ったら、本格的にレッスンする、という類のものです。

僕は独学でショパンノクターン第8番op.27-2を練習していたので、それを見てもらう事にしました。
当日はとてもソワソワしました。そもそも人に聴かせる機会というのが独学だと皆無で、かつ、自分は極度のあがり症なのです。ごく偶に行くピアノサークル等でもそうですが、弾いていると足が震えてきます。「皆が注目している!」とか考えると、ピアノがコントロール出来なくなり、下手なピアノが余計下手になります。

そう考えると話はそれますが、ピアニストというのはとてもすごい存在です。先日のアンスネスも然り、ピアノの腕前もさることながら、度胸がなくては出来ませんね。

 

そんなこんなで、ピアノ教室に行くと、50代位の品の良い女性の先生がにこやかに迎えてくれました。部屋の中には古いタイプのカワイのグランドピアノがありました。

「取り敢えず、弾いてみましょうか」と言われたので、おずおずとピアノの前に行き、椅子に座ると、椅子が高い

僕は足が短いので(笑)、いつもは椅子を低くして演奏しているのですが、高い椅子はあきらかに弾きにくいであろうと思ったので、「すみません、椅子直してよいですか?」と椅子の高さを調整しようとすると、「ごめんなさい、これ何年間もその高さのままなんですよ。動くかしら?」と先生。

僕はこの瞬間、戸惑いました。「えっ、椅子の高さは、生徒によって調整すべきものなのでは?」

先生は椅子の高さを直そうとしましたが、何年間も固定された椅子は、やはり動かず、結局高い椅子のまま僕は演奏しました。

かなりミスをしましたし、左手の伴奏が大きくなりましたが、先生はとても褒めてくれました。それは素直に嬉しかったです。

「久しぶりに、こういう本格的な演奏を聴きました。音大を出ていなくてもここまでやれるのですね。本当にピアノがお好きなんでしょう。これから来る小学生の男の子にも聴かせてやりたかった」

と仰って下さいました。そして続けて、

「あなたは私のところに来る必要はありません。例えば、ポップスが弾きたくなった、とか、半年に一度、この曲のこの部分の弾き方が分からない、という感じで単発のレッスンであればしてあげることはできます。でもこの教室では、基本的に、『この音どこ?』という質問に答えたり、『右手のこの音を弾いている時に左手のこの音を出す』といったレヴェルの事を教えている、そういう教室なんです。

この時点で、僕は察しました。基本的にはこのピアノ教室は小学生向けで(だから椅子が高かった)、先生の仰る通りある程度楽譜が読める人には不向きだと。

 

こういう訳で一日にして破門になった訳ですが、僕はピアノ教室と一言で言っても、色々な先生がいるな、と思った次第です。この先生が「ダメ」だとかそういう事をいうつもりは毛頭ありません。寧ろ、殆どのピアノ教室はこのように小学生や中学生を相手にして教えているでしょう。仮にそのような小学生の中から「ピアニストになりたい」というような上手い生徒が出てきて、手に負えなくなったら先生同士のコネで「別の指導力のある先生」を紹介されるのでしょうね。

 

そして僕はこの経験から、「僕自身、ピアノ教室に通う事から、何を学ぶのか?」という事を深く考えさせられました。取り敢えず、今現在の自分は楽譜は読めるし、簡単な曲だったら弾くことができる。と思いました。

しかしながら、僕がピアノ教室に通いたい「意義」というものは、表現力であったり、高度な技術であったり、モチベーションの維持であったり、変な癖をなくすためであったりします。加えて人前で弾くことに抵抗感を無くすという事も挙げられます。

このあたりの技術が、今の僕には圧倒的に欠けています。偶に行くピアノサークルでも自分の演奏が出来ず、「本当に自分は下手だな…」としょげてしまうくらいです。

 

2.ピアノの先生は土日休みが多いので、こちらも通えない

上記のような事を考えて、今度はピティナを通して、近くの有名な先生を紹介してもらいました。ピティナの担当者によると、生徒が今埋まっているので、12月以降であれば、レッスンが可能とのこと。

先生にメールでコンタクトを取ってみたところ、「平日にくることはできますか?日曜日は休みですが、土曜日は全て埋まっています」との事。

9月の時点で僕の仕事は「日月休み」でしたので、「月曜日に行くことが出来ます」と返信しました。ところが、10月になって僕の仕事の休みが世間一般と同じく「土日休み」になってしまったのです。泣く泣く諦めざるを得ませんでした。先生からのメールも「お会い出来なくて残念です。お仕事頑張ってください」というものでした。なんだか申し訳ない気持ちになりました。

 

しかしながらここまでくると、神様が僕に「ピアノ教室に通うな!」と言っているようです(笑)

 

3.どうすればピアノ教室に通えるか、今考え中

という訳で、未だピアノ教室には通えていません。

平日に通う事も考えました。つまり仕事の終わる(であろう)18:00以降に、レッスンしてくれる先生を探すのです。しかしながらこちらの仕事が18:00に終わる保証はありませんし、仮に終わったとしても遅い時間にレッスンをしてくれるピアノ教室があるかどうか疑問です。

勿論、大手のピアノ教室であれば、「大人のピアノコース(夜間)」等があると思いますが、いかんせん、自分の求めているレッスンなのか疑問です(このあたりは以前のエントリーにも書きました)。

今まで自宅の近くで探していましたが、平日で夜間が可能ならば職場の近くでもよいだろうと思い、そちらの地域でも探しています。

 

進展があったらまた記事を書きたいと思います。

読んでいただきありがとうございました。

 

 

ショパン ノクターン集[遺作付] 解説付 (Zenーon piano library)
 

 

 

2016.11.23 「彼は正統派か?」アンスネスのピアノリサイタルの感想(於:所沢アークホール)

 

前回のコンチェルトに引き続き、アンスネスのリサイタルに行って参りました。

今回行った演奏会のプログラム

2016.11.23 所沢ミューズアークホール 15:00開演

ピアニスト:レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)

曲目

シューベルト:3つの小品(即興曲)D946
シベリウス:即興曲 第5番 Op.5-5
シベリウス:3つのソナチネ 第1番 Op.67-1
シベリウス:2つのロンディーノ 第2番 Op.68-2
シベリウス:ロマンス Op.24-9

〜休憩〜

ドビュッシー:『版画』 「塔」「グラナダの夕べ」「雨の庭」
ショパン:バラード 第2番
ショパン:夜想曲 第4番
ショパン:バラード第4番

〜アンコール〜

ショパン:英雄ポロネーズ
シベリウス:悲しきワルツ

 

久々の所沢ミューズアークホール

東京の気温は低く、次の日は11月にも関わらず雪が朝から降るという日、今年始めてダッフルコートを出して着て、所沢へ。

僕にとって所沢のこのホールはクリスチャン・ツィメルマンがベートーヴェンの32番のソナタと、ブラームスを弾いた2009年以来であるから、もう7年も行っていない。しかしながらこのホールはツィメルマンがお気に入りというだけあって、なかなかの穴場ホールという噂である(武蔵野市民文化会館なども良いと聞くが、こちらは現在改装中なのと、チケットが以外に取りにくいらしい)。

 

2日前のNHKホールでのシューマンのピアノ協奏曲の興奮冷めやらず、

 (前回のエントリー)

piano6789.hatenablog.com

 

足早に航空公園駅からホールまで歩く。閑散とした道路に植わっている街路樹は色とりどりに紅葉しており、少し物悲しく、そして仄かに暖かい気分にさせる。僕は音楽会に行く直前には、できるだけ精神を研ぎすませて、「一音とも聴き逃さないようにしよう」と思うのだが、このように「現在」に集中すると、ふと日常では見逃している綺麗なものに注意がいく。まさしく生演奏の効能といってよい。音楽会に行く前から人は変わっているのだ。
こういった音楽会に行くまでの非日常的シークエンスがこれから始まる音楽を予想させるかのようであり、事実、アンスネスの弾くシベリウスでその考えは当たった。

 

北欧フィンランドの写真

 

アンスネスのシューベルト

「うたが聴こえる」と思った。シューベルトの本質は「うた」にあり、その美しいメロディは構成とかそういったもの以上に我々に訴えかけてくるものがある。西洋音楽史では構成重視のベートーヴェンなどの陰に隠れてひっそり佇む「野ばら」のような存在であるが、彼のメロディメーカーぶりは素晴らしい。

アンスネスは持ち前の美音でそのメロディを弾いていくが、「うた」で言うところの「息継ぎ=ブレス」の表現が素晴らしい。例えば主題に戻る直前に奏される要の一音が、今まで弾いていたフレーズとは違う音の出し方をしており、聴き手にとって「音楽の流れが変わる」と言うことを認識させることに成功していた。

こういったことは全体の構成の見通しの良さに起因する部分であろう。そしてそれ以上にシューベルトの持つ「うた」の流れの良さが際立った素晴らしい演奏であった。

僕の個人的な意見を言えば、もっとシューベルトの持つ暗さ陰鬱さ(例えそれが長調で書かれていても)を表現できればよかったのかなと。それには美音だけでなく、訳のわからないような響きも必要、時には音が濁る事も必要である。
おそらくアンスネスがこれから年をとるに従って表現できてくる部分だと思う(あるいは、もっとピアノが下手になったときか?笑)。それにしても若死にしたシューベルトがこんな深淵な音楽を作っている事に驚きである。

 

 

アンスネスのシベリウスで北欧の大自然を思い出す

 まず、即興曲の5番から、下降する分散和音をうんと小さく、そして美しい音で粒立ちよく弾いた。その音を聴いて、「アンスネスが日本に帰ってきた!」と実感した。

僕の頭に同時に立ち上る北欧の情景。それは荒涼とした原野だったり、白樺のある湖だったり、雄大なフィヨルドだったりするのだが、そんな自然に対して、屹立と対峙し、時には同居する力強い人間のさまも見て取れた。

アンスネスはどうしたって、北欧の人なのだ。グリーグ然り、シベリウス然り、こういった音楽は恐ろしく雄弁に語ることができる。まるで作曲家自身が演奏しているのではないか?と思ってしまうほど。恐らくそれはアンスネスのDNAに染み付いているレヴェルのものであろう。

前のエントリーでは、「アンスネスは客観的に音楽を造る」と書いたが、こと北欧の作曲家の音楽演奏に於いては、主観的な表現を厭わない(恐らく、アンスネス自身がグリーグやシベリウスを自分にとって親密な作曲家と思っているのであろう)。

だが、それが聴く人にとってとても自然に、まるで最初からそこにあるべくしてあった音楽のように写る。

 

作家の村上春樹氏が著書「意味がなければスイングはない」で、アンスネスのシューベルトに対して絶賛をし、以下のように述べている。

 

深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。

 以上はシューベルトのソナタに対しての評価であるが、まことに的を射たことばであると思う。そして、このようなアンスネスの演奏の「特徴」は、他の作曲家にも当てはまる。当然、シベリウスに対してもだ。

 

シベリウスのロマンスは、NHKホールで聴いた時よりもより親密でインティメイトな印象を受けた。

僕自身、シベリウスの音楽はあまり聴くことはないのだが、シベリウスの神曲、「アンダンテ・フェスティーボ 」を想起させた。あの単純なスコアから出てくるしみじみとした北欧の清新な空気感が、このロマンスにも見て取れた。シベリウスという作曲家はなんて偉大なのであろう!

 


アンダンテ・フェスティーボ シベリウス作曲

 YouTubeより引用

 

 

色彩感に満ちたドビュッシーの版画 

瑞々しい音楽、色彩が立ち上る風景を見た。完璧にコントロールされた打鍵、ペダルにより音楽が今まさに立ち上る感覚。一音たりとも疎かにしない音楽作り、それでいて、全体の流れの良さは失わない。
アンスネスは細部まで作り込んでから演目に載せるのだけれど、そのように感じさせない出来立ての音楽がホール全体を満たした。

構成感も素晴らしいのだが、音響系ピアニストの素質も十分で、僕はこの日一番感動したのが、このドビュッシーである。ニュアンスの付け方が絶妙で、ピアニッシモからフォルテシモまで幅広く、同じピアニッシモであっても音色を変えてみたり、まさしく変幻自在であった。

正直圧倒された。ピアニストとはこういうものか!と。僕もピアノを趣味程度に弾くのだが、こんなにも一音一音、細部までこだわって音を出して、かつ全体の流れも見失わずに初めて「音楽」といえるのだということを再認識し、自分の演奏技量を恥じた。

こういう演奏をされると、僕の中では「静かな興奮」が沸き起こり、思わず背筋を正さずにはいられなくなった

終曲の「雨の庭」の表現も見事で、最後に雨が上がり、太陽の光が射し、木々の葉に残る水滴が太陽の光を受けてキラキラと乱反射するさまがありありと見えた。

 

実はこの曲に関しては、昔にネットでアンスネスの海賊版のライブ演奏を聴いたことがある(今はこんなことしません。時効だよね?)

その時から「端正な演奏」だと思っていたのだが、実演に触れてその思いは確信へと変わった。

アンスネスはシベリウスのCDを出した後に、すぐにでもドビュッシーのCDを出すべきである。数年前に来日したときにもドビュッシーの前奏曲から抜粋で弾いてくれて、素晴らしかった覚えがあるので、是非とも、是非とも出して欲しい。
恐らくアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリと良い勝負のドビュッシー録音になると思うのだが。

 

 

他の誰とも違うバッハを意識したショパン演奏、「彼は正統派か?」

アンスネスのショパン演奏、これをどのように解釈すればよいのだろう?

まず、バラードの第二番。牧歌的な旋律から急に嵐が来る部分、アンスネスは右手の下降旋律を小さな音で弾いた。その代わり、左手の旋律を大きく弾いた。普通のピアニストであれば、右手の下降旋律もフォルテシモで弾くだろう。実に変わった表現である。フレーズのとり方、ブレスのとり方も独特で、いささかせわしない、スイスイとした印象を受ける。もっともアンスネスは昔から「もっと歌って欲しい」と思う部分もこのように「スイスイ」と進めていくのは前回のエントリーにも記述した通りである。

それが、普段聴き慣れている、例えばポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、ミケランジェリ、ツィメルマン等々の所謂「ショパン演奏」とは違い、違和感が残った。しかしながら、バラードの四番で、彼のやらんとしている事が分かった。

 

アンスネスはショパンにバッハの陰を見ている

 

という事である。僕は左手のバスの動きに注意して聴いていた。なるほど、ポリフォニーの表現ができている。バスの音を強調している(強調するといっても、シプリアン・カツァリスのようにこれ見よがしにやっている訳ではない)。いたって自然に、全体の有機性は失わずに、バッハを意識しているのだ。これは恐れ入った。スコアを細部まで徹底的に読み込み、この表現が自分に一番合う、これがショパンのやりたかったことだ、と見做して辿り着いた表現であることがありありと分かる。

翼の折れた天使が、再び天高く上昇していく部分は一般のショパン弾きがやるような「タメ」をあまり作らず、アンスネスは冷静に、バスと旋律の配分を工夫しながら、進めていった。

こういった表現があるのか!と僕は感心した。

と同時にアンスネス=正統派という巷で言われている図式に問題提起せざるを得ない。

数年前、吉田秀和氏(前回のエントリーから何度も登場させてすみません)がNHKのラジオ番組、「名曲のたのしみ」に於いて、アンスネスを「変わったピアニスト」と呼んだ事が、僕にとって強烈に印象に残っているが、再びその「ことば」が蘇ってきた。

 

この演奏を聴いて、僕は一つの確信を得る。彼は少なくともショパンに関しては「正統派」ではない。「正統派」の定義が難しいが、ここではショパンコンクールで優勝(入賞)した多くのコンテスタントが採用する演奏、と定義しよう。

ポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、ツィメルマンその誰とも似ていない。これらの演奏家同士の演奏にも開きがあるが、やはり彼らには「ショパンらしい」と認めざるをえない「節回し」が、伝統として存在するのだ。

アンスネスの演奏はこの「ショパンらしさ」があまり無い。恐らく、ショパンコンクールにエントリーしたら、本選まで残れない。

しかしそれがなんだ、というのだ。ショパンらしさなどという幻影はもう20世紀に置いてきてしまえ。綿密に楽譜を読み込む事から得られる、新しく立ち上った、バッハを意識した、そして音楽的には「周辺」である北欧の空気と切っても切れないこのアンスネスの解釈にも光を当てるべきなのではなかろうか?

僕はこのバラードと夜想曲、アンコールの「英雄ポロネーズ」の演奏で、上記のようにアンスネスの立ち位置を認識し直した。彼は「稀有な存在」であり、意外と自分を曲げない。それでよいのである。作曲家に対する敬意はまざまざと示されていることに変わりはない。

 

 

アンコールのシベリウスの悲しきワルツは絶品

「アンスネスはどうしたって、北欧の人なのだ」先程記述したフレーズがよみがえる。少しオシャレで、陰鬱で、楽しくも儚げなこの曲を色々な音色のパレットで、シャープに表現してくれた。音楽的には周辺、辺境に位置する北欧の巨匠、シベリウスの声を聴いた。

僕は再び「アンスネスが帰ってきた」と思う。これが彼の一番自然な姿なのであろう。

 

北欧ノルウェーの写真

 

 

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございました。本来、音楽を言葉にするという作業は、とりわけ良い音楽を言葉にするという作業は無粋で、そして僕のような語彙の貧弱な人間が表現すると実演の100億分の1も伝わらない事を自分自身で理解しながらも、この「未来の巨匠」に対する記録として、書かざるを得なかった部分があります。
様々な意見があるかと思いますが、あくまで僕の主観的な意見ですので、ご了承下さい。

 

2018/10/13追記:アンスネスのショパンアルバムが発売されましたので買って聴いてみた感想を記事にしました。よろしければ下記よりどうぞ。

 

piano6789.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 上記のショパンソナタ演奏はとても若く瑞々しい、本文で言うところの「正統派」に近い演奏。第一番のソナタに関しては、右に出るものはいないと思います。

 

 

 アンスネスが変わった、と認識したのはこのベートーヴェンの旅から。彼はこの旅で一回りも二回りも大きくなった気がします。3枚CDが入っており、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1〜5番と、合唱幻想曲がアンスネスの弾き振りで聴ける。オケはマーラー室内管弦楽団。

 

言わずと知れたアンスネスのグリーグの演奏。世界中のどのピアニストよりもグリーグを理解していると思われます。

 

2016.11.20 アンスネスの弾くシューマンのピアノ協奏曲を聴いた感想(ジンマン指揮N響 於:NHKホール)

久々にブログを更新します…。僕が私淑するピアニストのアンスネスが弾くシューマンのコンチェルトを聴きに行って参りました。

 

今回行った演奏会のプログラム

第1848回N響定期公演2016.11.20(日)15:00〜 NHKホール

指揮:デーヴィッド・ジンマン(David Zinman)
ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)
曲目:シューマン:マンフレッド序曲
   シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
  (アンスネス氏によるアンコール)シベリウス:ロマンス作品24-9変ニ長調
   シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」

 

レイフ・オヴェ・アンスネス氏略歴

1970年、ノルウェーのカルメイ生まれ。ベルゲン音楽院でチェコ人教授イルジ・フリンカに学び、その後ベルギー人のジャック・ド・ティエジュに指導を受ける。早くより国際的な活動を開始し、1992年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団定期公演にデビューを果たす。以来、同世代のもっとも才能豊かなピアニストのひとりとして、世界の檜(ひのき)舞台で脚光を浴びている。
 メジャーレーベルでの録音も活発で、アントニオ・パッパーノ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるラフマニノフ『ピアノ協奏曲集』や、グリーグ『叙情小曲集』でイギリスのグラモフォン賞を獲得するなど、数多くの受賞歴を誇る。
 近年の活動ではマーラー室内管弦楽団との「ベートーヴェンへの旅」プロジェクトが大きな話題を呼んだ。4年にわたってベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》全5曲に取り組み、ヨーロッパ、北米、アジアでツアーを行って成功を収めた。その成果はレコーディングでも聴くことができる。
 2002年にノルウェーの最高の名誉とされるノルウェー王国聖オラフ勲章コマンダー、2007年にはペール・ギュント賞を受賞した。
 N響とは1999年、2008年、2011年に次ぐ共演となる。

上記記載は、NHK交響楽団ウェブサイトより引用

 ※ちなみに、アンスネスの功績はこれ以外にも沢山あります。

※引用中にあるN響との共演は1999年はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、
2008年はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、2011年はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番だったと記憶しています。

 

初めに、僕のアンスネス視聴歴について

僕が初めてレイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)のピアノ演奏に接したのはかれこれ十数年前(歳がバレるので曖昧に…)、大学1年の頃に下北沢の中古CD屋に入った時に何気なく手にした「カール・ニールセンピアノ曲集」のCDでした。当時のジャケットは青白い顔をした青年アンスネスが物憂げな表情を浮かべていて、何となくこの人の弾くピアノはどんな感じであろう、と思ったのを記憶しています。

 

 

ニ-ルセン:シャコンヌ(ピアノ曲集)

 

(上記のCDですね。現在はヤナーチェクのCDとセットで以下の廉価版が出ています)

ヤナーチェク&ニールセン:ピアノ作品集

 

当時ミーハーであった僕は、イーヴォ・ポゴレリチとかそういったピアニストが好きで、かっこよく思っていました。なので、ちょっとポゴレリチを意識した、斜に構えたこのジャケットに惹かれたのです。恥ずかしい話、ジャケ買いですね(笑)。

まぁ、ジャケ買いではあったのですが、「ニールセンってどんな作曲家だろう?聴いてみたい!」という思いもありました。当時はYouTubeも無い時代でしたので、音楽を聴くにはCDを買うか、NHKのFM放送を聴くか、NHKのクラシックテレビ番組を見るか、位の方法しかなかったですね。演奏会は学生時代はあまり行ったことがなかったです。

それでもマイナー作曲家のピアノ曲NHK-FMで偶に取り上げられていて、所謂、ドイツとかフランス以外の「周辺」の作曲家に興味を持たせる起爆剤にはなっていました。

このような曲がFMから流れると、「お、この曲は聴いたことのない、何かとても良い感じがする!何という作曲家の何という作品だろう?」と興味が沸いてきました。

そんな訳で、積極的にマイナーな作曲家の作品を知りたい年頃でしたので、買って帰って、アパートで聴きました。

 

そこには僕の知らない音空間が広がっていました。衝撃を受けました。まずピアノの音がクリアで非常に透明感があり、若々しくエッジが効いたリズム感が素晴らしい。瑞々しい音楽で、まるで北欧、ノルウェーフィヨルドの渓谷にある氷でできた幻想的な洞窟の中で聴いているかのような錯覚に襲われました(そんな所行ったことないですが…)。

僕自身が山村の、冬は寒い村出身ということもあったのかもしれませんが、アンスネスの音楽に深く共感しました。

それからは、アンスネスの出す殆どのCDを買っています。そして、2007年の2月にさいたま芸術劇場で初めて実演に接して以来、来日する度に僕が聴きに行く唯一のピアニストとなりました。

(ちなみにこの時はシベリウスの小品、お得意のグリーグのバラード、シェーンベルグ、そしてベートーヴェンの最後のピアノソナタ第32番でした。とりわけこのベトソナの2楽章のピアニッシモのトリルの音が柔らかくて素晴らしく、衝撃を受けました)

 

アンスネスの演奏の特徴を自分なりに解釈してみる

僕は当時の実演には接していないですが、アンスネスはデビューしたての頃は結構バリバリ弾いていたように思います。「バリバリ」というのは、今よりもヴェルトオーソに近い、所謂 「力技」ですね。先程紹介したニールセンや、ヤナーチェクのCDなどを聴くとよく分かります。今では必要な時しか使わない低音のフォルテシモもよく聴こえます。

ここでその証拠に、音楽評論家の故、吉田秀和氏が、音楽会評でアンスネスについて書いている文章を抜粋で紹介したいと思います。

 

(前略)だが、実演をきくと、多彩な音楽をこなす能力というのは、むしろ彼の表面的な面でしかなく、本質的にはかなりはっきり自分の領域をもっている人なのではないかと思われてくる。広いレパートリーは、まだ若いし狭い枠に自分を閉じこめてはいけないという意識と意欲の結果、こうなっているのではないか。少なくとも目下のところ、彼がとりあげる曲がいろいろ違っているほどには彼の演奏から聞こえてくる音楽は変わっていない。(中略)

ラフマニノフ(『楽興の時』『練習曲集』からの抜粋五曲)は胸のすくような早業とかすごい強者の披露とか、走りまわる高音と低音の間で聞こえてくる中声の歌とかはよかったが、このピアノの大家の曲をきく人なら誰も期待している深々とした響きや濃厚な情趣とかにふれる喜びは完全には満たされないまま。むしろ力任せに叩きつけるフォルテと単調でニュアンスの乏しいピアノの連発に少々閉口して「美しい音楽」をききたくなった。(後略)

白水社 吉田秀和全集より1999年12月20日の演奏会評より一部引用

 

これまた随分な言われようですね(笑)。「力任せに叩きつけるフォルテ」というのは、現在のアンスネスの演奏からは到底想像できないです。「美しい音楽をききたくなった」って、アンスネスの音楽は「美しくない」ということですか?ちょっと賛同しかねますね。

しかしながら、この文章にはこの後にシューベルトの20番ソナタを評して、「この人がただのピアノひきではないことがはっきりわかる。」という文章も出てきます。
また、吉田氏は晩年(といっても僕が初めてアンスネスの実演に接した2007年2月)、アンスネスの弾くベートーヴェンの32番のソナタを絶賛していました。

以下引用の引用。

夕刊には吉田秀和の「音楽展望」を掲載。もう80才の半ばだと思うが、今日の文章はTVも新聞も遠ざけた彼の老境の香りが漂っている。今までにない味わいだ。ところが、文章の終わりに書かれたベートーベンの最後のピアノソナタ作品111についてのコメントが実にいい。少し長いが引用しておく。最近アンスネスの演奏でこの曲を聴いたということで「とくに第4変奏以降の音楽はこれ以上考えられない微妙な音で影の世界に出没する何かみたいに聞こえた。(中略)ベートーベンは「晩年に向かうにつれ、こうした諦念に満ちた霊妙の世界に入っていったのである。この音楽のあと残していった沈黙は、およそ音楽から生まれた沈黙の中でも最も深いものである。」これを言いたいために全体があるような気もするがどうだろうか。

吉田秀和の「音楽展望」 - 残照亭日常さんより引用

 

話を元に戻すと、
アンスネスは若い頃と今では芸風が変わったということですね。
もちろん、核になる部分、例えば曲全体の見通しの良さ、恐ろしく正確でよく回る指、テンポ感の良さ(殆どテンポを揺らさない)、エッジの効いたくっきりとした打鍵は健在ですが、
そこにまろやかで、馥郁たる柔らかい絹糸のようなピアニッシモの表現が加わります。低音の叩きつける表現は身を潜め、代わりに「音楽的であることを優先した、幾分抑えられたフォルテシモ」の表現が加わります。決して音を濁らせないペダリングも見事です。それと、去年のベートーヴェンの弾き振りで大いに関心したことですが、曲全体の見通しの良さ、にも関係してきますが、「曲の構造」を完璧に理解しています。

 

 

そして、僕が思うアンスネスの演奏の最大の特徴は、

「完璧に演奏曲を準備して、それを本番で出せる事」

だと思うのです。

しかしながら、これは裏を返せえば、

「本番中に、準備した以上の事を羽目をはずしてやらない」

という事です(勿論、会場の響きや雰囲気によって多少は弾き方を変えたりはしていますし、そういう事も十分できる能力を持ったピアニストです)。

 

僕が好きなピアニストの一人にクリスチャン・ツィメルマンがいますが、彼のサントリーホールでのショパン演奏は素晴らしいものでした。本番ではショパンソナタで迷子になる部分もありましたが、3番のソナタのフィナーレはどんどんヴォルテージが上がっていき、ミスタッチも何のその、迫力満点の演奏を聴かせてくれました。これには大いに興奮しました。

こういった、スリリングな演奏とは対象的にアンスネスの演奏は一見淡白に聴こえます。ミスタッチも極端に少ないです。
それは職人気質な性格にもよると思います。多分アンスネスは予定を立ててその通りに実行する、という事がピアニストの誰よりも秀でています。

それ故に、自分自身を客観的に見ることに長けた、非常に知性的で、洞察力の鋭いピアニストといえます。客観的にステージ上の自分を見れてしまう事によって、主観的な表現は鳴りを潜めます。
アンスネスの関心事は「音楽」そのものであり、「構造」であるのです。

聴く人によっては「アンスネスの演奏はつまらない、安全運転で普通に弾いてるだけじゃん」とか、
アンスネスショパンは自分を出さない」という意見があることも十分理解できますが、
では「真の音楽のあり方」とはどのようなものでしょうか?「真のショパン演奏」とは?「真のシューマン演奏、ベートーヴェン演奏とは?」…。

 

僕が思うに、これは結局は「人それぞれの好み」の問題だと思います。

恋愛でもそうですが、スリリングな間柄のカップルもいれば、しみじみとした間柄のカップルもいるわけです。天才肌の人間が好きな人もいれば、職人気質の人間が好きだという人もいます。その時時によっても好みは変わるでしょう。

 

 僕の個人的な意見からすると、アンスネスの演奏、とりわけ生演奏は、聴いている方からすれば十分興奮のできる、大変魅力的な演奏であることが多いです。音楽を客観的に追求した演奏が、十分に説得力を持って、「音楽」として届くからです。

 

前置きが長くなりましたが、今回のピアノ協奏曲の感想

さて、長々とアンスネスの演奏の特徴を書いてしまいましたが、僕は今回の演奏を聴いて、アンスネスは少しずつ、再び芸風を変えようとしているように思えました(それは、去年あたりから伸ばしているヒゲも関係しているかもしれません笑)。

 

シューマンのピアノ協奏曲では、ペダリングが絶妙で、すべての音に対して神経が行き届き、一つの音も疎かにしない、知性的なアプローチでした。それでいて温かく、さながら手慣れた職人さんが、アラベスク模様を丹念に紡いでいくように、音が紡ぎ出されます。

オーケストラとの掛け合いも絶妙で、ジンマンさんの音量の調整とか、歌い方もアンスネスと合っており、「この二人は馬が合うのでは?」と思いました。

芸風が少しずつ変わった、と思ったのは、いつもより荒々しい音が出ている部分が幾つかあったことです。勿論、歌謡曲専用NHKホールですから、オーケストラの音に埋もれないために大きな音を出す必要がある箇所もあるのですが、これは素晴らしいことのように思えました。「主観的な部分を表に出そうとしている」のだと解釈しました。
そして、いつもより「スイスイ」と音楽を進めない、聴かせるところは聴かせる演奏でした。過去のアンスネスのCD等(例えば、ヤンソンスとやったこのシューマンのピアノ協奏曲)を聴くとよく分かりますが、アゴーギクの変化(テンポの揺れ)があまりなく、スイスイと次のフレーズに進んでしまう面がありましたが、今回はゆったり目のテンポで、適度に構造的に合理的な「句読点」を音楽に取り入れていました。

そして3楽章は聴いていてとても幸せでした。シューマンはこんなにも良い曲を作っていたのか!と改めて認識しました。

音楽を構造的に解析しながらも、全体的に収斂されていくような工程を、それでいて自然さを失わない工程を視聴することは、耳にとって愉悦であり、快楽でありました。

僕は演奏が終わりそうになるのが、名残惜しくて仕方ありませんでした。

盛大な拍手とブラボーの後の、アンコールのシベリウスの「ロマンス」は、決して中心となる音楽ではなく、周辺に佇んでいる音楽にも関わらず、その現代的な響きと、フィンランドの大自然から生まれた響きが絶妙に表現されていました。アンスネスの多彩な音色を感じることができました。

 

総じて、満足のいく演奏会でした。アンスネスは僕にとってこれからも聴き続けていきたい唯一のピアニストということを再認識しました。次は23日に所沢のリサイタルに行きます。

 

 

(2016.11.21朝追記)

未だに昨日の演奏を思い浮かべるととても幸せで、満ち足りた気分になります。やはり素晴らしい演奏でした。

 

☆所沢でのリサイタルに関する感想記事はこちら↓ 

piano6789.hatenablog.com

 

(おまけ)アンスネスのCDのおすすめ

①僕は、バラバラに買っていったのですが、下記のCDはかなり安くなっておりアンスネスのCDを初めて買う人向けにはとても良いセットだと思います。ただし協奏曲ばかりだそうですが(今回の演奏会で弾いたシューマンのピアノ協奏曲も入っています)…。

あと、来年あたりにシベリウスピアノ曲が入ったCDが発売されるそうです。
(僕は絶対買いますので、買ったらまたレビューします)

 

 

  

②ホライズンはアンスネスがアンコール等で好んで演奏してきた小品集です。とても綺麗で、よくまとまっているCDです。これはマストバイでしょう。

 

他にも色々ありますが、(というかアンスネスのCDは全部オススメですが)自分で探してみてください(笑)。

 

ピアノ独学の大人(男)が弾いてみたシリーズ第二弾 映画「君の名は。」より

皆さんこんにちはこんばんは。

 

今回は巷で話題になっている映画「君の名は。」の中から、「秋祭り」と「かたわれ時」という曲をピアノで弾きました。

 

ちなみに、僕はまだこの映画を見ていません。しかしながら、映画とほぼ同時に完成したという新海誠氏の小説「君の名は。」の方は読みました。

小説 君の名は。 (角川文庫)

 

小説の方は面白かったですが、多分この物語は文字だけよりは映像があるとより分かり易いと、読んでいて思いました。

 

映画の方がとても評判が良いので、見に行きたいのですが僕は映画館の雰囲気があまり好きでは無いのです。正確に言うと、映画館に入るまでに知らない人に合うのが面倒くさいです。これはあきらかに自意識過剰ですが、「あのオッサン、一人でこんな若者向けの映画見に来てるよ」と思われるのが嫌なのです。あとは自由に泣けないところとか…。

 

しかしながら、「この映画は映像がとてもキレイなので、映画館で見たほうが良い」とツイッターで連呼されていたので、週末に力を振り絞って見に行きたいと思います。

 

映画を見ていない、それなのになぜ楽譜を買ったのか?

小説を読んだ後、先週たまたま入った楽器屋さんに、この楽譜が置いてありました。

ピアノソロ 『 君の名は。』 music by RADWIMPS

実はRADWIMPSさんのYour Name 君の名は。(通常盤)も売っていたのですが、僕は普段からあまりCDを買うことがなくて、あったとしてもクラシックばかりなので、ここは独学ピアノ男として楽譜のほうを買うべき、と思ったのです。当然、楽譜とCDの両方を買えば済む話ですが、予算の問題もあり(笑)楽譜のみ購入しました。

もう一つには、映画やCD等の音源を聴かずにどれだけ自分自身で楽譜のみから音楽が構築出来るか?という事を試してみたかった、というのもあります。

 

最初に弾く曲は「秋祭り」と「かたわれ時」の2曲に決定

楽譜を買ってきてパラパラめくってみると「秋祭り」と「かたわれ時」が比較的易しめの難易度で、一週間位で仕上げることができるのではないか?と思ったので、この静かな感じのする2曲にしました。

毎晩、電子ピアノにヘッドフォンをつけて20分程集中して練習しました。賞味5日位。

 

 

そして、本日スタジオに行って撮ってきた演奏がこちら

「秋祭り」

www.youtube.com

 

「かたわれ時」

www.youtube.com

 

弾いてみた感想、工夫したところ、ダメ出し等

 
「秋祭り」

最初の8小節は繰り返しをするのですが、この2回目の繰り返しでウナコルダ(左ペダル)を踏んで、弱い音で弾いてみました。

物悲しい雰囲気を出すのが苦労しました。劇中のどの場面で流れるかはよく分かりませんが、小説を読んだ限りでは後半の、彗星が来るその日の秋祭りですよね?
僕はいつも秋になるとブラームスを聴きたくなるほど鬱になるので、そんな気分を想像して、また、僕の田舎の秋祭りを思い出しながら弾きました。

最後の上昇アルペジオは音が大きくなってしまいました。ここの強弱の指定はないですが、何か儚げに終わらせたかったのに、音が大きくなってしまい反省しています。ここも左ペダルを踏めば良かったかも…。

 

「かたわれ時」

まず、全体的に自分の音楽になっていない事を自分自身にダメ出しします。

4小節目のドの音が大きすぎた

19小節目(Bの部分)はあきらかに目立つミスをしてしまった。

後半のポップスっぽいノリ(8分音符と16分音符で構成される)が、普段クラシックばかりやっているので(言い訳)、リズムが取りづらい。

左手と右手の交差が難しかった。

これも劇中のどこで流れるかよく分からないのですが、秋祭りの時の山の頂上の御神体の周りで二人が出会うところなのかな??と思います(違っていたらすみません…)。であるならば、もっと一音一音を大切に弾くべきだったです。

 

総評

「かたわれ時」に関してはもう少し練習が必要でした。映画を見た後にイメージを掴んで練習したいです。

 

次は何の曲を弾こうか?

君の名は。ピアノ楽譜目次

ピアノソロ 君の名は。music by RADWIMPS  yamaha music media corporation より目次引用

 

僕の音楽能力()を考慮すると、「歌詞のついている音楽」は弾くのが難しいです。というのも、普段からほとんどクラシックの簡単な曲ばかり弾いているので、現代風のノリについていけない、歌詞の細かい音符の動きについていけない、速いリズムの曲がムリ、という致命的な欠点があるからです。

なんというか、分かる人には分かってもらえると思いますが、歌詞とかのシンコペーションを頭のなかで数えてしまう、数えないと出来ないのですよね。

こういうような「歌詞のある曲」を楽譜もあまり見ずに弾ける人がいますが、正直凄いと思います。そんな能力が欲しいです。

 

さて、そんな訳で、次に練習する曲は、「はじめての、東京」「御神体」あたりでしょうか?それぞれ2ページ、3ページなので、長くなくてちょうどよいです。それが終わったら焦らずに「前前前世」とか「スパークル」など、歌詞のある曲にも挑戦してみたいと思います。

 

全体的には、少しピアノをやっていれば弾ける曲が多いと思いました(ただし練習はしないとダメですね)。そして、結構美しい曲が多いです。きっと映画を見ればもっと愛着が湧くのでしょうね。

僕も映画を早く観て、より一層曲のイメージをつかめるように、良い演奏が出来るようにしたいです。 

 

読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

ピアノソロ 『 君の名は。』 music by RADWIMPS

ピアノソロ 『 君の名は。』 music by RADWIMPS