ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

場面緘黙症のあなたが他人から誤解される理由


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本日は場面緘黙症で悩む人々に向けてのお話です。実際にコミュ障であり緘黙症である自分が経験したことなので、「そういうことあるよね」と理解してもらえるかと思います。

緘黙症がコミュニケーションで失敗しやすいこと、及び失敗したときの対処法を自分なりに考えてみました。

 

目次:

 

悩み

 

コミュニケーション障害、緘黙症の人は他人から誤解を受けやすい

 

突然ですが、ここにいる健常な方に質問です。あなたをAさんとします。

職場にはAさんにあまり話をしてくれないBさんという方がいます。Bさんは全然喋れないわけではなく、自分以外のCさんとは寧ろ打ち解けて、たまにふざけた話もしています。

ところが、Aさんの前では黙りこくったまま。目もあまり合わせてくれません。たまに事務的な話をするだけで、打ち解けようとはしてきません。Aさんから話しかけてもあまり反応はありません。

 

あなた(Aさん)は、Bさんに対してどのような感情を持つでしょうか?

 

恐らく、「Bさんは私が嫌いなんだな」とか「何故、私だけ無視するの?Bさんおかしくない?」「Bさんが何考えている全然分からない」などと思うでしょう。

そして、Bさんには以後話しかけることをせずに、距離を置こうとするでしょう。成熟していないコミュニティ内では、場合によってはBさんをイジメの対象にしたり、集団で無視する対象にしたり、悪い噂の対象にしたりするでしょう。

 

 

実は、場面緘黙症のBさんは、このような誤解を生む行動を知らないうちに取っていたりします。

Bさんにとって、Cさんと話すのは慣れているし、緘黙症の症状も出ない、ところが何故かAさんと話す時は緘黙症の症状が出てしまう。こういった場合が起こり得るのです。

また、普段二人になると少しは話せるのに、集団での飲み会や打ち合わせ等で一言も発せないような緘黙症の人もいることでしょう。このような人も健常な他者からみると「あ、そういう人なのね(ネガティブな捉え方)」とか、「このコミュニティが嫌いなんだね」、「何考えているか分からない人」等々と認識されてしまいます。

 

場面緘黙症の人間は少なからず、「二重人格的な人」として認識されてしまうことも多いです(ここで言う二重人格は医学的な多重人格者等とは違い、普段僕たちが使っている二重人格の意味です)。

 

僕もずっと昔、このような誤解を生む行動をしてしまい、非常に参ったことがあります。そして、緘黙症の人間は大方当てはまると思いますが、このような状況を意外と客観的に見れていたりします。

話さないからといって他人の心が分からないわけではなく、寧ろ分かっているという事が緘黙症の人を苦しめます。何故なら「違う、誤解だ!」という言葉さえも自身が緘黙症であるために伝えられないからです。

緘黙症の人は「空気が読めない」のような指摘がありますが、僕が思うに、逆に「空気を読み過ぎている」のだと思います。

 

健常な人間であれば、少し苦手な人間に対しても話しかけることができるので、所謂「大人の対応」ができます。言葉による議論やコミュニケーションが出来るのです。

つまり、それ以上は関係が悪化することは無い場合が多いです。

 

ところが、場面緘黙症の人間は言葉によるコミュニケーションが苦手なために、周囲との関係が悪化する可能性があります。

 

 

 

コミュニケーションはギブ・アンド・テイクだが…ギブ出来ない!

コミュニケーションというものはギブ・アンド・テイクです。恐らくは、緘黙症の人でも、仲の良い、打ち解けた友人に対しては話されたら話し返す、という事が出来ているのではないでしょうか?

ただ、ひどい人見知りの人もそうですが、緘黙症の人はあまり打ち解けていない人への対応に「ギブ」出来ません。

自分自ら話しかけるのも難しく、例え話しかけられても満足に話し返す事が出来ず、このことが他者からの不信感を生み出します。

 

 

 

向き合う人によって態度が違うのも誤解を生む、だからといって誰とも話さないのは?

 昔の僕は、このような自分の二重人格的態度が嫌で仕方がなかったので、あるコミュニティでは誰とも仲良くならない戦略を取りました。つまりは「話をするが誰に対しても少なめに、最低限のコミュニケーション」で済ましていました。

先程の例で言えば、僕はBさんで、Aさんと話す時も、Cさんと話す時も同じくらいの熱量で、最低限のコミュニケーションしか取りませんでした。

こうすれば僕は平等に他人と接している、と思ったのです。

ところが、こうすると自分がどんどんコミュニティからつまはじきになっていきました。最終的には誰も僕を相手にすることが無くなりました。

 

とりわけこのような態度「消極的八方美人」はコミュニティでは命取りです。孤立まっしぐらですね。コミュニティ内で平等に話しかけることを目指す必要はないのです。 

 

 

ではどのような態度で他人と接するのが正解か?

あくまでも僕の経験ですが、先程の例で言うと、僕がBさんだったら、話しやすいCさんには通常通り沢山話すべきです。Cさんとの会話すらも遮断するのはよろしくないです。コミュニティというものは「誰とでも平等に話す」べきものでもないのです。

今すぐ「消極的八方美人」を止めてください。

そのコミュニティ内での周囲の人を見てください。意外と「あの人とあの人はあまり喋っていないな」とか「あの人とあの人は仲がいいな」というものが見つかるかと思います。

つまり、場面緘黙症であるか、ないかに関わらず、馬の合う人間と合わない人間というのはいるものです。

 

その上で、Aさんと二人で会話をする機会があったら、勇気を持って話してみるべきだと思います。

場面緘黙症の人間は大勢の前で話すのが難しい場合があるので、サシで話したほうが良い場合があります。 

Aさんと話すことができれば、意外と「自分は何故こんなつまらない事に悩んでいたんだ?」という感覚になり、精神的に安定します。やはり、言葉というものは偉大です。

仮にAさんとは仲良く出来なくても、Cさんとは仲良くやっているし自分は独りではない、と言い聞かせてください。

 

そもそも、緘黙症の人は人と話さないために「完璧症」や「教条主義的」になっていたりします。人とのいざこざを避けるために消極的八方美人になっているのです。

「このコミュニティにいる以上、誰とでも仲良くやっていかなくてはならない」と考えている節があるのです。そして、そうでない自分に悩むのです。

しかし、これは間違いです。

同じコミュニティ内でも対立している人がいて当たり前だし、ウマが合わない人がいて当たり前なのです。

 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)の第五章「人生の意味を求めて」に「■他人を気にしない」という章があります。以下引用します。

 

勇気づけについて学ぶと多くの人が自分が勇気づけられるかどうかということを気にかけます。私をどうして勇気づけてくれないの、私はあなたをこんなに勇気づけているのに、と。しかし、他の人からそのような働きかけを受けることや、他の人からどう思われるかを気にかけることは人がいきていくために必須のことではないのです。

他の人からどう思われているかを気にすると非常に不自由な生き方を強いられることになります。絶えず人に合わせていかねばならないからです。

もちろん、人のことをまったく考えなくていいというのではありませんが、人にどう思われるかをいつも気にかけ、嫌われることなく好かれたいということばかり考えて生きていくと、結果としてたしかに皆に気に入られるようになるかもしれませんが、あらゆる人に対して八方美人を演じるのでそのために人生の方向性が定まらず、やがて不信感を持たれてしまうことになります。

そういう人は自分が実に不自由な生き方をしているといわなければなりません。敵がいないということは絶えず人に合わせているということですから、不自由な生き方をしているといわなければなりません。

そもそもどんなことをしても自分のことをよく思わない人はいます。十人の人がいれば一人ぐらいはそういう人がいます。こちらもその人のことが嫌いで、向こうも自分のことを嫌っています。二人の人は何をしても受け入れてくれます。こちらも相手も好感を持っています。あと七人はどんな人かというと、そのときそのときで態度を変えます。私たちが付き合っていきたいのは二人の人です。その他のひとのために心を煩わせて、エネルギーを使う必要はない、と思います。〜以下省略

 

 

上記の著書はアドラー心理学の入門書にうってつけなので、読んでみても良いかもしれません。少なくとも僕は読んでみて心が軽くなりました。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 

 

 

それでも「このコミュニティにいるといつか自分が倒れてしまう」といった改善不可能な状況になってしまったなら、コミュニティを変更することも視野にいれるべきです。

もっと言えば、所属するコミュニティを増やす、というのがネットが発達した現代にとっては一番良い方法だと思われます。会社や学校は「目的の完遂(業績アップ、学業等)」のための手段に過ぎない、と自分の中で折り合いをつけて、仲良くする人は別のコミュニティで探す、というやり方です。

そう考えると、現代というのは本当に良い時代になりました。そのようなコミュニティはネットで検索すれば沢山ありますし、昔のように一本のレールから外れたら即NG!という感覚も段々と薄れてきているように思われます。

何より、そのような多様なコミュニティに属していなくても「そのようなコミュニティの存在がある、最終的にはそこにお邪魔しよう」と自分の中で多様なコミュニティの気配を感じることで、現在所属している会社や学校等のコミュニティでも耐えることが出来る、というモチベーションアップにもなるのです。

ここを見て悩んでいる場面緘黙症の人たちにも、「選択肢は無数にある」ということを感じてください。何も「置かれた場所で咲きなさい」などという暴言を信じる必要は無いのです。

 

 

 

  

休日の過ごし方、ストレス解消法、メンタリティの保ち方

そうは言っても、場面緘黙症の人は普通の人よりストレスを抱えることが多いかと思います。

僕なども会社で嫌な事があった場合は、休日もそのことをずっと考えてしまったりして(専門用語で反芻思考と言います)、全く休んだ気になれず、何もする気にもなれず引き篭もっていたりしました。

 

どのような対処法があるのでしょうか?

取り敢えず、僕が「効いた」と思ったものは、「旅行に独りで行ってみる」というもの、それと「森林浴をする」というもの、あとは、緘黙症と吃りの対処療法として、「音読をする」というものでした。

森林

 

あとは、以前に緘黙症の記事を書いた時も書いたのですが「状況を口に出して、或いは書いてみること」もかなり効果があります。

 

元々、緘黙症の人間はあまり話さないので物事を「言語化する」ということを避けていたりします。

超ストレス解消法 イライラが一瞬で消える100の科学的メソッドによれば、Fix94章「ネガティブ感情ラベリング」にこのような言葉があります。

・ストレスに弱い人ほど、自分のネガティブな感情を区別するのが苦手だった

・ストレスに強い人は、自分のネガティブな感情を区別するのが得意だった

つまり、ストレスに弱い人は、「悲しみ」や「不安」といった感情を明確に区別せず、「なんだかイヤな感じだなぁ……」といったように、大ざっぱにとらえがちなのです。

 

著者はこのような感情に対し明確に名前をつけるとスッキリした気分になれる、と言っています(正確には2012年のミシガン大学でのエビデンスからこの結論を導き出しています)。

 

このように考えると、緘黙症の人は言語化してみる、というのも手だと思います。

 

また、上記で紹介した

 超ストレス解消法 イライラが一瞬で消える100の科学的メソッド

は、まだ僕も実践中ですが、帯にも「ハーバード、スタンフォード、ケンブリッジが効果実証 」と書いてある通り、比較的に信頼できるエビデンスが元になり、100のメソッドとして紹介されています。2018年に出た新しい本でありながら、アマゾンではベストセラーになっています。

しかも結構読みやすい!

感情の整理方法や、取るべき栄養素だったり、瞑想法、これをやると悩みが吹っ飛ぶ(ボルダリング等)、森林浴の効果等々、その人にあったストレス解消法がメソッドとして紹介されていますので、このような本を読んで自分なりのストレス解消法を見つけていくのがよいのではないかと思います。常備薬的に家に置いておき、ストレスが溜まったらいくつかのメソッドを試してみる、という使い方も出来そうです。

良い本なので紹介させていただきました。

一人でも場面緘黙症や人見知りで悩んでいる人が減ることを願っています。

 

読んでいただきありがとうございました!