ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

2016.11.23 「彼は正統派か?」アンスネスのピアノリサイタルの感想(於:所沢アークホール)


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前回のコンチェルトに引き続き、アンスネスのリサイタルに行って参りました。

今回行った演奏会のプログラム

2016.11.23 所沢ミューズアークホール 15:00開演

ピアニスト:レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)

曲目

シューベルト:3つの小品(即興曲)D946
シベリウス:即興曲 第5番 Op.5-5
シベリウス:3つのソナチネ 第1番 Op.67-1
シベリウス:2つのロンディーノ 第2番 Op.68-2
シベリウス:ロマンス Op.24-9

〜休憩〜

ドビュッシー:『版画』 「塔」「グラナダの夕べ」「雨の庭」
ショパン:バラード 第2番
ショパン:夜想曲 第4番
ショパン:バラード第4番

〜アンコール〜

ショパン:英雄ポロネーズ
シベリウス:悲しきワルツ

 

久々の所沢ミューズアークホール

東京の気温は低く、次の日は11月にも関わらず雪が朝から降るという日、今年始めてダッフルコートを出して着て、所沢へ。

僕にとって所沢のこのホールはクリスチャン・ツィメルマンがベートーヴェンの32番のソナタと、ブラームスを弾いた2009年以来であるから、もう7年も行っていない。しかしながらこのホールはツィメルマンがお気に入りというだけあって、なかなかの穴場ホールという噂である(武蔵野市民文化会館なども良いと聞くが、こちらは現在改装中なのと、チケットが以外に取りにくいらしい)。

 

2日前のNHKホールでのシューマンのピアノ協奏曲の興奮冷めやらず、

 (前回のエントリー)

piano6789.hatenablog.com

 

足早に航空公園駅からホールまで歩く。閑散とした道路に植わっている街路樹は色とりどりに紅葉しており、少し物悲しく、そして仄かに暖かい気分にさせる。僕は音楽会に行く直前には、できるだけ精神を研ぎすませて、「一音とも聴き逃さないようにしよう」と思うのだが、このように「現在」に集中すると、ふと日常では見逃している綺麗なものに注意がいく。まさしく生演奏の効能といってよい。音楽会に行く前から人は変わっているのだ。
こういった音楽会に行くまでの非日常的シークエンスがこれから始まる音楽を予想させるかのようであり、事実、アンスネスの弾くシベリウスでその考えは当たった。

 

北欧フィンランドの写真

 

アンスネスのシューベルト

「うたが聴こえる」と思った。シューベルトの本質は「うた」にあり、その美しいメロディは構成とかそういったもの以上に我々に訴えかけてくるものがある。西洋音楽史では構成重視のベートーヴェンなどの陰に隠れてひっそり佇む「野ばら」のような存在であるが、彼のメロディメーカーぶりは素晴らしい。

アンスネスは持ち前の美音でそのメロディを弾いていくが、「うた」で言うところの「息継ぎ=ブレス」の表現が素晴らしい。例えば主題に戻る直前に奏される要の一音が、今まで弾いていたフレーズとは違う音の出し方をしており、聴き手にとって「音楽の流れが変わる」と言うことを認識させることに成功していた。

こういったことは全体の構成の見通しの良さに起因する部分であろう。そしてそれ以上にシューベルトの持つ「うた」の流れの良さが際立った素晴らしい演奏であった。

僕の個人的な意見を言えば、もっとシューベルトの持つ暗さ陰鬱さ(例えそれが長調で書かれていても)を表現できればよかったのかなと。それには美音だけでなく、訳のわからないような響きも必要、時には音が濁る事も必要である。
おそらくアンスネスがこれから年をとるに従って表現できてくる部分だと思う(あるいは、もっとピアノが下手になったときか?笑)。それにしても若死にしたシューベルトがこんな深淵な音楽を作っている事に驚きである。

 

 

アンスネスのシベリウスで北欧の大自然を思い出す

 まず、即興曲の5番から、下降する分散和音をうんと小さく、そして美しい音で粒立ちよく弾いた。その音を聴いて、「アンスネスが日本に帰ってきた!」と実感した。

僕の頭に同時に立ち上る北欧の情景。それは荒涼とした原野だったり、白樺のある湖だったり、雄大なフィヨルドだったりするのだが、そんな自然に対して、屹立と対峙し、時には同居する力強い人間のさまも見て取れた。

アンスネスはどうしたって、北欧の人なのだ。グリーグ然り、シベリウス然り、こういった音楽は恐ろしく雄弁に語ることができる。まるで作曲家自身が演奏しているのではないか?と思ってしまうほど。恐らくそれはアンスネスのDNAに染み付いているレヴェルのものであろう。

前のエントリーでは、「アンスネスは客観的に音楽を造る」と書いたが、こと北欧の作曲家の音楽演奏に於いては、主観的な表現を厭わない(恐らく、アンスネス自身がグリーグやシベリウスを自分にとって親密な作曲家と思っているのであろう)。

だが、それが聴く人にとってとても自然に、まるで最初からそこにあるべくしてあった音楽のように写る。

 

作家の村上春樹氏が著書「意味がなければスイングはない」で、アンスネスのシューベルトに対して絶賛をし、以下のように述べている。

 

深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。

 以上はシューベルトのソナタに対しての評価であるが、まことに的を射たことばであると思う。そして、このようなアンスネスの演奏の「特徴」は、他の作曲家にも当てはまる。当然、シベリウスに対してもだ。

 

シベリウスのロマンスは、NHKホールで聴いた時よりもより親密でインティメイトな印象を受けた。

僕自身、シベリウスの音楽はあまり聴くことはないのだが、シベリウスの神曲、「アンダンテ・フェスティーボ 」を想起させた。あの単純なスコアから出てくるしみじみとした北欧の清新な空気感が、このロマンスにも見て取れた。シベリウスという作曲家はなんて偉大なのであろう!

 


アンダンテ・フェスティーボ シベリウス作曲

 YouTubeより引用

 

 

色彩感に満ちたドビュッシーの版画 

瑞々しい音楽、色彩が立ち上る風景を見た。完璧にコントロールされた打鍵、ペダルにより音楽が今まさに立ち上る感覚。一音たりとも疎かにしない音楽作り、それでいて、全体の流れの良さは失わない。
アンスネスは細部まで作り込んでから演目に載せるのだけれど、そのように感じさせない出来立ての音楽がホール全体を満たした。

構成感も素晴らしいのだが、音響系ピアニストの素質も十分で、僕はこの日一番感動したのが、このドビュッシーである。ニュアンスの付け方が絶妙で、ピアニッシモからフォルテシモまで幅広く、同じピアニッシモであっても音色を変えてみたり、まさしく変幻自在であった。

正直圧倒された。ピアニストとはこういうものか!と。僕もピアノを趣味程度に弾くのだが、こんなにも一音一音、細部までこだわって音を出して、かつ全体の流れも見失わずに初めて「音楽」といえるのだということを再認識し、自分の演奏技量を恥じた。

こういう演奏をされると、僕の中では「静かな興奮」が沸き起こり、思わず背筋を正さずにはいられなくなった

終曲の「雨の庭」の表現も見事で、最後に雨が上がり、太陽の光が射し、木々の葉に残る水滴が太陽の光を受けてキラキラと乱反射するさまがありありと見えた。

 

実はこの曲に関しては、昔にネットでアンスネスの海賊版のライブ演奏を聴いたことがある(今はこんなことしません。時効だよね?)

その時から「端正な演奏」だと思っていたのだが、実演に触れてその思いは確信へと変わった。

アンスネスはシベリウスのCDを出した後に、すぐにでもドビュッシーのCDを出すべきである。数年前に来日したときにもドビュッシーの前奏曲から抜粋で弾いてくれて、素晴らしかった覚えがあるので、是非とも、是非とも出して欲しい。
恐らくアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリと良い勝負のドビュッシー録音になると思うのだが。

 

 

他の誰とも違うバッハを意識したショパン演奏、「彼は正統派か?」

アンスネスのショパン演奏、これをどのように解釈すればよいのだろう?

まず、バラードの第二番。牧歌的な旋律から急に嵐が来る部分、アンスネスは右手の下降旋律を小さな音で弾いた。その代わり、左手の旋律を大きく弾いた。普通のピアニストであれば、右手の下降旋律もフォルテシモで弾くだろう。実に変わった表現である。フレーズのとり方、ブレスのとり方も独特で、いささかせわしない、スイスイとした印象を受ける。もっともアンスネスは昔から「もっと歌って欲しい」と思う部分もこのように「スイスイ」と進めていくのは前回のエントリーにも記述した通りである。

それが、普段聴き慣れている、例えばポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、ミケランジェリ、ツィメルマン等々の所謂「ショパン演奏」とは違い、違和感が残った。しかしながら、バラードの四番で、彼のやらんとしている事が分かった。

 

アンスネスはショパンにバッハの陰を見ている

 

という事である。僕は左手のバスの動きに注意して聴いていた。なるほど、ポリフォニーの表現ができている。バスの音を強調している(強調するといっても、シプリアン・カツァリスのようにこれ見よがしにやっている訳ではない)。いたって自然に、全体の有機性は失わずに、バッハを意識しているのだ。これは恐れ入った。スコアを細部まで徹底的に読み込み、この表現が自分に一番合う、これがショパンのやりたかったことだ、と見做して辿り着いた表現であることがありありと分かる。

翼の折れた天使が、再び天高く上昇していく部分は一般のショパン弾きがやるような「タメ」をあまり作らず、アンスネスは冷静に、バスと旋律の配分を工夫しながら、進めていった。

こういった表現があるのか!と僕は感心した。

と同時にアンスネス=正統派という巷で言われている図式に問題提起せざるを得ない。

数年前、吉田秀和氏(前回のエントリーから何度も登場させてすみません)がNHKのラジオ番組、「名曲のたのしみ」に於いて、アンスネスを「変わったピアニスト」と呼んだ事が、僕にとって強烈に印象に残っているが、再びその「ことば」が蘇ってきた。

 

この演奏を聴いて、僕は一つの確信を得る。彼は少なくともショパンに関しては「正統派」ではない。「正統派」の定義が難しいが、ここではショパンコンクールで優勝(入賞)した多くのコンテスタントが採用する演奏、と定義しよう。

ポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、ツィメルマンその誰とも似ていない。これらの演奏家同士の演奏にも開きがあるが、やはり彼らには「ショパンらしい」と認めざるをえない「節回し」が、伝統として存在するのだ。

アンスネスの演奏はこの「ショパンらしさ」があまり無い。恐らく、ショパンコンクールにエントリーしたら、本選まで残れない。

しかしそれがなんだ、というのだ。ショパンらしさなどという幻影はもう20世紀に置いてきてしまえ。綿密に楽譜を読み込む事から得られる、新しく立ち上った、バッハを意識した、そして音楽的には「周辺」である北欧の空気と切っても切れないこのアンスネスの解釈にも光を当てるべきなのではなかろうか?

僕はこのバラードと夜想曲、アンコールの「英雄ポロネーズ」の演奏で、上記のようにアンスネスの立ち位置を認識し直した。彼は「稀有な存在」であり、意外と自分を曲げない。それでよいのである。作曲家に対する敬意はまざまざと示されていることに変わりはない。

 

 

アンコールのシベリウスの悲しきワルツは絶品

「アンスネスはどうしたって、北欧の人なのだ」先程記述したフレーズがよみがえる。少しオシャレで、陰鬱で、楽しくも儚げなこの曲を色々な音色のパレットで、シャープに表現してくれた。音楽的には周辺、辺境に位置する北欧の巨匠、シベリウスの声を聴いた。

僕は再び「アンスネスが帰ってきた」と思う。これが彼の一番自然な姿なのであろう。

 

北欧ノルウェーの写真

 

 

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございました。本来、音楽を言葉にするという作業は、とりわけ良い音楽を言葉にするという作業は無粋で、そして僕のような語彙の貧弱な人間が表現すると実演の100億分の1も伝わらない事を自分自身で理解しながらも、この「未来の巨匠」に対する記録として、書かざるを得なかった部分があります。
様々な意見があるかと思いますが、あくまで僕の主観的な意見ですので、ご了承下さい。

 

2018/10/13追記:アンスネスのショパンアルバムが発売されましたので買って聴いてみた感想を記事にしました。よろしければ下記よりどうぞ。

 

piano6789.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 上記のショパンソナタ演奏はとても若く瑞々しい、本文で言うところの「正統派」に近い演奏。第一番のソナタに関しては、右に出るものはいないと思います。

 

 

 アンスネスが変わった、と認識したのはこのベートーヴェンの旅から。彼はこの旅で一回りも二回りも大きくなった気がします。3枚CDが入っており、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1〜5番と、合唱幻想曲がアンスネスの弾き振りで聴ける。オケはマーラー室内管弦楽団。

 

言わずと知れたアンスネスのグリーグの演奏。世界中のどのピアニストよりもグリーグを理解していると思われます。