皆さんこんにちはこんばんは。
今日は僕が読んだコミック版の「四月は君の嘘」(新川直司著 株式会社講談社 月刊少年マガジンコミックス)について感想を書きたいと思います。
目次:
このマンガを読んだ理由
このマンガを読んだ理由は3つです。
- 僕が単純にクラシック、ピアノを弾くことが好きだから
- 最近テレビのCMで映画版の宣伝を盛んにしているのを目にしたため
- Kindleで1巻のみ無料だったため
このような理由で、取り敢えずKindleで1巻のみを無料で購入して読みました。
読み始める前の自分は、あまり期待はしていませんでした。
僕の固定概念として、ピアノが出てくる、ピアニストが主人公のマンガというのは、
主人公が「風変わりで型破りで個性的で魅力的」なピアノ演奏を、例えばショパンコンクールの
イーヴォ・ポゴレリチ*1
みたく、最後でコンクールで弾いて聴衆が総立ちになってブラボーの嵐!彼女(彼氏)とも結ばれてハッピー!!
みたいな、貧弱なストーリーのマンガを思い描いていたのですが、
1巻を読み進めるうちに、そのような貧弱なストーリーではないことが分かりました(貧弱なのは僕の想像力でした...)。
ここから多少ネタバレがあるので、注意(本作の核心には触れません)
第1巻のストーリー(第2巻冒頭から引用)
11歳の秋、母の死をきっかけにピアノが弾けなくなった元天才ピアニスト・有馬公生。目標もなく過ごす彼の日常は、モノトーンのように色を失っていた。だが、14歳の春–少年は一人の少女と出逢う。暴力上等、性格最低・・そして才能豊かなヴァイオリニスト、宮園かをりは公生の灰色の世界を変えていく。
音楽コンクール1次予選を『聴衆推薦』によって通過したかをりは、次なる課題曲サン=サーンス『序奏とロンド・カプリチョーソ』のピアノ伴奏に公生を指名する。
「演奏に集中すると、ピアノの音が聴こえなくなるんだ」。致命的ともいえるハンデを抱えている事を告白する公生。だが涙を流しながら頼み込むかをりの姿に動かされ、コンクールの伴奏を引き受ける。
表舞台へと帰ってきた元天才少年は、少女と共に如何なる『音楽』を奏でるのか!?
そして僕は、1巻を読み終わった後に速攻で全巻を大人買いしました。
四月は君の嘘 コミック 全11巻完結セット コミック (講談社コミックス月刊マガジン)
このマンガが嫌いになった理由
以下3点理由があります。
1.キラキラ輝いていて、まぶしすぎるから嫌い
君の言うことやること全て
キラキラ輝いていて
僕は まぶしくて 目をつぶってしまう
(2巻第8話 水面 より引用、宮園かをりが主人公である有馬公生にピアノコンクールに出るようにうながした後、橋の上から飛び降りたシーン)
このマンガ全体に言えることですが、「キラキラ輝いていてまぶしすぎる」のです。それは僕のようなアラフォーの男の胸にはとても苦しいのです。
若い頃の、底抜けに明るくて、時に深海の底のように暗くて、時に甘美で、時に残酷な青春の日々を、このマンガは全て見事に描ききっています。
それが、僕には我慢できない。
自分のモノトーンな現在と比較してしまう、という事もありますが、若い頃のキラキラした、カラフルな経験とかそういうものを扱っているこの作品は、僕の年代になると「痛み」として分類されてしまいます。ここで言う「痛み」とは「あの人イタい人」とかで使用される「イタみ」ではなく、「心の痛み」そのものです。
恐らくは、若い頃の純粋さとか、無鉄砲さ、衝動...そういった、歳を取るにつれ失われていくものに対して、「憧憬」とか「憧れ」を抱いてしまうのでしょう。
しかし、その「憧れ」はあくまで憧れとして処理するしか無いのです。タイムマシンは無いのですから。
「あぁ、あの輝かしい、時にモノトーンで時にカラフルな若き日はもう二度と戻ってこないのだなぁ...。」
と思うと、やりきれない気持ちになります。と同時に、
「キラキラしたこの作品に触れてはいけない」と思う程、崇高な作品
だと再認識しました。
2.音楽が頭から離れない、ピアノを弾きたくなるから嫌い
君は何のために弾くの? 自分のため? 誰かのため?
僕は君のために弾こうたった1人でいいや 君だけでいいや
ありがとう届くかな 届くといいな
僕の中に 君がいる
(5巻第18話 君といた景色 より引用、毎報コンクールに出た有馬公生が演奏を止めた後再び弾きだすシーン)
この場面で有馬公生は、「ショパンのエチュードop.25−5ホ短調」を弾いているのですが、読んでいる僕にとってはこの曲の中間部が、頭の中にリフレインして困りました。
再び弾きだした有馬公生の頭の中で、音楽室で寝ているかをりに対して、有馬公生がピアノを弾くこの上なく美しいシーンや、橋の上から一緒に飛び降りた若さを表す衝動的なシーンの回想が描写されるのですが、これほどまでにこのop.25−5の中間部がピッタリくるシーンはないでしょう。
なぜ作者がこの部分でop.25-5を選んだのか?
最大の理由はどうしようもないほど甘く耽美的なこのホ長調の中間部にあるのではないでしょうか?あるいは、戻ってくるホ短調の主部の最後の、光が射すようなホ長調の音の解決。
主人公の有馬公生は、この場面でトラウマの一部を断ち切るとともに、宮園かをりへの想いの芽生えに自分で気づいたのではないでしょうか?
とにかく、この後も物語が続くのですが、僕の頭の中ではまるで通奏低音のように、この曲の中間部が何度も流れてしまい、どうしようもなかったです。
他にも「クライスラー=ラフマニノフの愛の悲しみ」とか、「チャイコフスキーの眠りの森の美女の薔薇のアダージョとワルツ」とか、「ショパンのバラードト短調」とか、この物語を語る上で重要な曲が登場しますが、僕の頭の中では絶えずどこかでop.25−5が鳴っていました。
下記はマウリッツオ・ポリーニのショパンエチュードop.25-5の演奏です。
(ちなみに本著「四月は君の嘘」に「ヒューマンメトロノーム」という表現が出てきますが、このポリーニを連想してしまいました。ポリーニのエチュード集
はクラシックピアノを本格的にやっている人間はほぼ間違いなく持っているでしょう。)
あまりにも僕の頭の中でリフレインするので、op.25-5を練習し始めてしまいました(笑)。下記はパデレフスキ版のショパンエチュード楽譜のop.25-5の中間部出だしです。
弾けるようになったら(すごく時間がかかると思いますが...汗)、僕のyoutubeのほうでアップしたいと思います。
3.電車の中で読めない、会社で仕事が手につかないから嫌い
僕はKindle版を買ったので、ipadで通勤電車の中で読もうと試みました。しかしながら、この試みは失敗しました。
めくるページ、めくるページにいちいち涙腺崩壊させるシーンや言葉があって、人の目があるところではとても読めないからです。
また、上記1、2の理由とも被りますが、会社で仕事をしていても、このマンガのシーンや言葉、そして音楽が聴こえてきて集中できず、「どうして僕は仕事なんかしているのだろう?」と、社畜人生を呪いたくなります。
一番印象に残るシーンはやはり最後のシーンですが、ここは核心なので、その他の部分を少しだけ挙げたいと思います。これ以外にも印象に残るシーンは沢山あります。
家が隣同士 私より ちっちゃくて 早くにお母さんを亡くして ほっとけない
元気になって欲しかった男の子 ただ それだけ きっとそれだけ
(7巻第28話 足跡 より引用、この後、有馬公生と澤部椿が夜の砂浜を歩く)
主人公の有馬公生と幼なじみの澤部椿も、この物語で重要な役割を演じています。
二人はベートーヴェンの月光ソナタの第一楽章を口ずさみながら、夜の浜辺を裸足で歩くのですが、椿がだんだんと自分の気持ちに気づいていくシーンがとてもよいです。そして、止まっていた時間を動かし、一歩を踏み出していくのが、印象的でした。椿にとって公生が「ずっと側にいて欲しい男の子」になる(という事に気づく)シーンです。
その人はね
ジェットコースターみたいな人なんだ
泣いたり 笑ったり 僕は振り回されてばかり
その人がいるだけで–
モノトーンだった世界が カラフルになるような
とてもまぶしくて
とても強い人なんだ
(8巻第32話 似た者同士 より引用、神社で有馬公生が藍里凪に心の中で語るシーン)
この「とても強い人なんだ」の部分のコマのシーンに打たれました。マンガというのは小説と違って、こういったシーン、一見アンビバレントな、相対するような情景を一度に描く事ができるのですね。
宮園かをりは有馬公生にたくさんのものをくれましたが、このコマを見て、今度は逆に有馬公生が宮園かをりにたくさんのものをあたえるのだなぁ、という事が予感できるシーンです。
ほら 奇跡なんてすぐ起こっちゃう
(11巻第41話 雪 より引用、病院の屋上で雪の降る中、宮園かをりがヴァイオリンを弾くシーン)
このシーンはとりわけ美しいです。マンガから音楽が聴こえるというのは、こういうシーンでしょう。僕はこれ以上記事を書く事ができません。
僕は一人じゃない
僕らは誰かと出会った瞬間から
一人ではいられないんだ僕の中に 私の中に 君がいる
一人になんかさせてやるもんか届け 届け 僕の全部をのっけて
届け
(11巻第43話 バラード より引用、コンクールで有馬公生がショパンのト短調バラードを弾くシーン)
このシーンと、これに続くシーンに関してはもはや僕が記事で書くのはおこがましいです。僕自身がひどく感傷的になってしまい、記事を書く事ができません。
ただ一つ言える事、それは有馬公生の弾くピアノはヒューマンメトロノームから脱して、沢山の出会った人間が影響を及ぼした、沢山の人間を感動させるピアノ、という事でしょう。
テレビアニメ版も見てみたい
テレビアニメ版について、僕の私的な出来事なのですが、このテレビアニメ版の音楽担当をしたある人(ピアニストではないです)の、少年時代のピアノ演奏を聴いた事があります。
その少年は周りから評判のピアノの巧い少年で、僕は彼の弾く「人形の夢と目覚め(エステン作曲)」を聴きました。もちろん生で。
それはもう、そこいらの田舎の少年とは思えない巧さでした。僕は彼の巧さがよく分かっていました。そして、アラフォーになった現在でもよく覚えているのです!
その姿が、僕の中で有馬公生の小さい頃の描写と被ります。
輝かしい、少年の日々の思い出です。
最後に、ここを見ている皆さんに一つだけ嘘をつきました
最後に、ここを見て下さっている皆さん、皆さんに僕は一つだけ嘘をつきました。
僕が「四月は君の嘘」というマンガが「嫌い」という嘘をつきました。
でもその嘘は、僕の前に皆さんを連れてきてくれました。
僕は、「四月は君の嘘」というマンガが、どうしようもなく好きです。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
*1:1980年、第10回ショパンコンクールの本選落選、審査員特別賞受賞。これまでのショパン解釈からは到底考えられない彼の演奏は奇抜すぎるとする他審査員に対し、審査員の一人マルタ・アルゲリッチが「彼こそ天才よ」といい、その場から立ち去り抗議。審査員を辞任する騒ぎとなった。
本書「四月は君の嘘」の中にも、6巻第23話 つき動かす の中で、ガラコンサートに来ない宮園かをりに対して、有馬公生が「ヴァイオリニストが来ないなんて非常識!!ミケランジェリかよ!!ポゴレリッチかよ!!」というくだりがある。