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ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

ピアニスト辻井伸行さんに「全盲の」という形容詞は必要か?


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今日は自分の拙い演奏技量()を差し置いて、プロピアニストの辻井伸行さんの演奏について批評を書きたいと思います。

最初に断っておきますが、障碍のある方を差別するような意図は全くありません。あくまでも辻井伸行さんのピアニストとしての資質を鑑みながら、特に日本に於ける一般的なピアニストの認知のされ方等について、疑問に思った事を書くつもりです。

 

辻井伸行さんについて以前思っていたこと

 

辻井伸行さんは生まれつき目が見えないいわゆる「全盲」のピアニストです。
しかしながら、ハンディキャップを乗り越え、2009年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにて見事1位を獲得したという、凄い経歴の持ち主です。

 

僕も、その時はクライバーン氏に抱きしめられる辻井さんの様子をテレビで拝見していました。ですが、正直なところ、その時の演奏、取り分けラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いて、オーケストラとピアノが合っていない、と感じました。もちろん、コンクールという、短い時間でオーケストラと合わせる練習をしなくてはいけない状況、加えて全盲である事のハンディキャップを加味すれば、この演奏は大したものだと思います。跳躍するようなパッセージも外さないし、目が見えないにも関わらず、難しい協奏曲をよく弾いた!とは思います。何より、透明感のあるピアノの音が彼の持つ資質の一つに思えました。

しかしながら、「クラシックのプロピアニスト」の演奏としては、僕はあまり評価をしていませんでした(自分が弾けないのに偉そうにすみません…)。

なぜならば、単純にもっと上手いピアニストは沢山いるからです。透明感のある音を出すピアニストも沢山存在します。

それはハンディキャップを加味しない、僕自身の正統な評価でした。

 

ハンデを加味しなくても、辻井伸行さんの演奏は一流である!

 

そんな少し「モヤっとした」感想もありながら、先日、明石家さんまさんの「さんまのまんま」というテレビ番組に出演していたのと、黒柳徹子さんの「徹子の部屋」に出演していたのを見て、「ああ、まだ持ち上げられているのだなぁ」と正直感じました。しかしそんな番組を見たからか、ふと、「今の辻井さんの演奏はどんなものだろう?」と思い、youtubeを漁って聴いてみました。

 

聴いた曲はプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番と、リストのラ・カンパネラ。ウィーンでの演奏会のようです。


僕は驚きました。まず、プロコフィエフのコンチェルト。佐渡裕さんが指揮しているオーケストラと辻井さんのピアノがぴったり息が合っているのです。この曲、超絶技巧を要することと、古典派にはない和音構成、そして何よりリズムがとても難しいと思いますが、それも楽々とこなしているのです。出てくるピアノの音色も清涼感のある、透明な、それでいてあまり楽譜からはそれない、例えばピアニストのゲザ・アンダとか、パワーを抑えて楽譜を密に読み込んだアレクシス・ワイセンベルク、といったような趣きで、全く退屈せずに聴き入ってしまいました。楽譜を尊重し、それでいてとても推進力のある、ワクワクさせる演奏で、気分が高揚しました。

恐らく先ほどの協奏曲のアンコールであろうラ・カンパネラのほうは、協奏曲のいわゆる「強い打鍵」と打って変わって、しっとりとした物悲しい音色で、まさに「鐘がすすり泣く」という表現がぴったりでした。所々でピアノの音色を変えて、時には慟哭のように突き刺さる低音も濁らないし、ペダリングも完璧、跳躍も外さない。

そして何より、僕は感情が揺さぶられました。

 

Youtubeの、質の悪い録画の音源でこの感動ですから、生で聴いていればもっと凄い演奏であったと思います。

(とりわけ、辻井伸行さんのタイプの演奏は生演奏が一番だと思います。
僕の好きなレイフ=オヴェ・アンスネスなども楽譜をあまりいじらない演奏をするタイプのため、CD等だと単調に聴こえる瞬間がありますが、このタイプの演奏家は生演奏がとてつもなく良いです。)

 

僕は辻井さんの演奏をずっと聴いてきたわけではありませんが、間違いありません。クライバーンで優勝して以来、彼はここ数年の間で、「進化」したのです。

 

「自称クラシック通」の偏見と、「背景のドラマに惹かれる人々」の偏見

 

僕が彼を見過ごしていたのは、偏見でした。というのも、僕は辻井伸行さんの演奏は「イロモノ」だと思っていたことを白状しなくてはなりません。本質的な彼の「音楽」に耳を傾けていなかったのです。これは、僕は辻井さんに謝罪をすべき事柄です。

 

自称クラシック通の偏見

自称クラシック通の人、取り分けピアノを齧っている、ピアニストを多く知っている人つまり「ピアノ演奏に詳しい人」は、彼を「イロモノ」として見ているのではないでしょうか?

 

ここで言うイロモノというのは、
「発せられる音楽そのものではなく、その人の人生のドラマティックな部分や、生き様に共感しているファンがいる事」で、

例えば、フジコ・ヘミングさんなんかもイロモノ扱いとされてしまっています。

分かりやすく言えば「アイドル」なんかと同じです(この点で、僕はフジコ・ヘミングさんにもある種の偏見を抱いている事が分かりました。これからは彼女の「音楽」もキチンと聴いてみたいと思います)。

 

しかし、この扱いをされると、日本などではとても人気が出ます。コンサートのチケットも即日完売とか、物凄く高い値段になったりとか。

 

辻井伸行さんの場合も、「全盲という大きなハンディキャップを克服して見事ヴァン・クライバーンで優勝したピアニスト」というドラマティックな背景があります。そして、日本ではとても人気です。

誤解を恐れずに言えば、このイロモノを「自称クラシック通=ピアノ演奏に詳しい人」はあまりよく思っていません。こちらの人々は「音楽そのもの」で評価をしたい、という思いが強いため、

イロモノである事=音楽性は大した事が無い

という偏見を持っているのです。

 

僕自身も以前、埼玉芸術劇場で、イェフィム・ブロンフマンのコンサートに行った時にガラガラの座席を見て、「どうしてこんなに素晴らしいピアニストの演奏が、僅かな席を満たせないのだろう?」と疑問に思いました。世界的に有名なピアニストでさえ、チケットが売れないのです。もちろん、埼玉という不便な(埼玉の人ごめんなさい)土地が影響しているのかもしれませんが。


このような経験もあり、「売れているピアニストは必ずしもよい音楽を奏でるとは限らない」という思考が出来上がりました。そして、ついには論理が飛躍し、

客の入らない、人気のないピアニスト=音楽性がある
イロモノである事=音楽性は大した事が無い
という偏見を持つに至りました。

 

 背景のドラマに惹かれる人々の偏見

こういう人々に対して、「背景のドラマに惹かれる人々」は、誤解を恐れずに言えば、音楽そのものが例え平凡なものだったとしても「この人はこういうドラマを乗り切って弾いているんだ」と感動する事が出来てしまいます。

ある意味日本人的な「お涙頂戴」の感動の仕方というのでしょうか?
こちら側の人々が持つ偏見は、

ドラマティックな人生がある事=素晴らしい演奏をする事

という偏見です。


実は厳密に言えば我々は先入観無しで音楽を聴く事はできない(BGM除く)

自称クラシック通の人々も奏者の「背景」で音楽を判断している

ある事件の記事より引用です。

〜1950年に録音されたリパッティの録音をEMIの名録音技師だったレッグもスイスの大指揮者アンセルメも、そしてあろうことか未亡人ですらリパッティのものだと太鼓判を押していた。ところが1980年代に入って、これはポーランドチェルニー=ステファンスカという人の録音だと判明し、世界中がひっくり返る事態となった。(後日談、悲しいことに当のステファンスカ盤は見向きもされなくなった。) 

[0884]偽物とわからず摑まされる無知の罪と偽物と知ってて売りつける故意の罪|TRAZOM@さるさる横丁

 

上記の事件は、有名ピアニストである、ディヌ・リパッティの演奏とされていたショパンのピアノ協奏曲の音源が、実はハリーナ・チェルニー=ステファンスカというピアニストのものだった、という大変お粗末な事件です。しかも大指揮者のエルネスト・アンセルメでさえ、リパッティのものであると疑わなかったようです。この録音はEMIよりリパッティの演奏として発売されて、10年以上経った後に、偽物と判明したようです。

そして、偽物と判明してからは、見向きもされなくなった、とあります。

 

このことからも分かるように、「自称クラシック通」というのもいいかげんなもので、奏者の音の違いや、演奏の特徴を捉えている、と豪語しておきながら、チラッとレコードのジャケットを見ないと本当は分からない、という事です。

ましてこの事件の場合、レコードのジャケットには「ディヌ・リパッティ」と書かれている訳ですから、「あ〜この音、これぞリパッティの音だ。この弾き方が良いんだよね」なんて蘊蓄を垂れている滑稽な自称クラシック通の姿を想像すると笑ってしまいます。

 

そして、注目すべきは「偽物と判明してからは、見向きもされなくなった」という部分です。

この事例から分かるように、極端な事を言えば、

自称クラシック通の人も「奏者の背景や人生、積み上げてきたキャリア」で、音楽を判断しているのです。

これは、「音楽そのものを聴かず背景のドラマに惹かれる人々」とほぼ変わりはありません。

つまり、BGMとか、ふいに聴く音楽以外の「能動的に聴く音楽」は、先入観を排除することはできません。我々は真に客観的に音楽を聴く事はほぼ不可能なのです。

 

 

ピアニストはキャリアを積む事も含めて、ドラマを作る事も大事である

ところで、有名なピアニストには何故か、イケメンや、美人が多いです。

これはキャリアを築く上で、思っている以上にプラスに働くからです。もちろん、実力も必要ですが、普通の顔とイケメンで実力が同じであったらイケメンが生き残ります(悲しいですね...)。

 

以前、僕が習っていたピアノ教室の先生は、

「某国際コンクールで入賞したイケメンピアニストの演奏会をオペラシティの大ホールで聴いたけれど、そんなに良い演奏ではなかった、でも帰る時にはホールに花束を持った人達が沢山サイン待ちをしていて、おかしいと思った。
この前聴いた○○君の演奏は小ホールでのものだったけれど、あきらかに○○君の演奏の方が上だった、にもかかわらず、小ホールで演奏しなくてはいけないのは、やはりおかしい。○○君が大ホールで演奏すべきなのに...」

と愚痴をこぼしていました。

 

つまりは、奏者にそれなりのキャリア(○○コンクール優勝、高名な先生に師事等)がある事、そして、ドラマティックな物語がある事(イケメンであること含む)が、売れる条件なのです。

クラシックの世界は非常に売れる事が難しいです。凄い実力を持っていても、ドラマがなければ売れません。メディアが取り上げてくれません。そのような人々、埋もれている上手い人々はゴマンといます。

少しでも名前が出ていて、演奏会が開けるピアニストは、このような死屍累々のピアニストのピラミッドの上に位置する実に恵まれた人と言えます。

 

でも、その事は決して悪い事ではないと僕は思います。確かに、実力があるピアニストが埋もれる可能性はありますが、先入観を持たず、真に客観的に音楽を聴くという事は無理な事である以上、自分を売り込む事が出来るキャリアやドラマ性を保持している事は、ピアニストの資質の一つと言えます。

 

例えば、グレン・グールドについて、彼は奇抜な演奏をする事で有名になりましたが、彼の生き様や、奇行等のドラマ性、背景が人気に拍車をかけたのです。グールドは非常に頭も良い人ですから、自分の奇抜性(夏でもコートを着る、低い椅子、演奏中にうなり声をあげる等)をキャリアの最初で隠そうとはしませんでした。そうすると「売れる」という事が分かっていたからです。
そして、そのおかげで、今日僕たちはグールドの演奏をCD等で沢山聴く事ができます。

 

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)

 

ピアニスト辻井伸行さんに「全盲の」という形容詞は必要か?

かなり話が脇道に逸れてしまいましたが、辻井伸行さんが「全盲という大きなハンディキャップを克服して見事ヴァン・クライバーンで優勝したピアニスト」という肩書きを持つ事は、非常にドラマティックであり、ピアニストとしての資質足り得ます。

他のコンクールで優勝した日本人ピアニストでも、これほどの人気がある人物はそうそういないと思います。

しかしながら、「全盲の」と形容詞をつけると、いわゆる「自称クラシック通」の人間はイロモノ扱いをしてその音楽を聴かない可能性があります。

「背景のドラマに惹かれる人々」は、背景のドラマに惹かれてその音楽そのものを聴かない可能性があります。

 

僕は自分自身が「自称クラシック通」に属する人間として、意見を述べると、

キャリアの最初では「全盲の」という形容詞は必要であったが、今や全く必要が無い。「ピアニスト辻井伸行さん」でOK!

と思います。真に客観的に音楽を聴く事は無理だ、と先に言いましたが、そういう背景を出来る限り忘れて、音楽そのものに聴き入る努力をして聴いたとしても、彼の音楽はまったくもって素晴らしいものです。少なくとも僕はそう思いました。もちろん、生演奏を聴いた事が無い僕がこんな生意気な事を言うのもアレですが...。生演奏だったらもっともっと素敵な演奏だろう事は容易に想像できます。

 

誤解のないように言っておきますが、僕は差別的な意味で「全盲の」という形容詞を取った方がよいと言っている訳ではありません。

辻井さんが全盲というハンディキャップを負っているという事は、とてもとても大変な、恐らく健常者が理解し得ないような苦労があったと思います。そして、これからも全盲であることに付き合っていかねばなりません。

しかしながら、辻井伸行さんの音楽を正統的に評価するという意味で、もはや「全盲の」というフレーズは必要ないのです。

 

辻井伸行さんの父親も以下のように言われています。

「盲目のピアニスト辻井伸行ではなくピアニスト辻井 伸行と呼ばれるようになってほしい」 

 

 

色々な人の生演奏を聴きに行こう!

自称クラシック通の人は「イロモノ」と言われる人にも目を向けて下さい。そしてその音楽を聴いてみて下さい。その後にファンになるかどうかはおまかせします。ただ、イロモノというだけで偏見を持って聴かず終いは止めましょう。自称クラシック通の人が聴いている演奏家だって、「その演奏家」だから聴いているというだけかもしれないのです。

 

背景やドラマに惹かれる人は、今一度、その音楽そのものを聴いて下さい。そして、他の「ドラマティックなキャリアを持たない演奏家」の演奏も是非聴いてみて下さい。

 

両者とも新しい発見が必ずあるはずです。

 

ここまで書いてきましたが、一番よい聴衆は何も知識を持たない人かも...

ここまで書いてきて、一番良い聴衆というものを考えてみました。色々な意見がありそうですが、私見では、例えばNHKあたりのラジオで偶然流れている音楽に対して奏者の事も何も分からずに、

「これ良い演奏だな!素晴らしい音楽だな。」

と思える瞬間が一番良い聴衆であろうと思います。先に出た「ふいに流れる音楽」、「能動的に聴こうと思っていなかった音楽」ですね。

僕自身も感性を磨いて、このような瞬間を日々増やしていきたいと思っております。

 

 

とてもまとまりのない文章でしたが、おわりにします。辻井さんの生演奏は是非聴きに行きたいと思っております。

 

読んで頂きありがとうございました。

 

  ↑最新のアルバムとの事です。