ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

朝吹真理子の「流跡」を久々に読み返した感想|言語化されないヌルヌルした何か。


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2010年下半期(2011年)の芥川賞作家は二人いた。一人は西村賢太、もう一人は朝吹真理子であった。西村賢太氏はその後もテレビ等に出演したりしていたので知っている方も多いと思うが、僕がこのとき気になったのは「朝吹真理子さん」の方であった。

 

対象的な二人、性別はもちろん風貌も、人生も、全く正反対なキャラで大変に興味深かった。

西村氏は芥川賞受賞の際に「どうせ受賞されないからソー○ランドでも行こうと思ってた」とか言っちゃう人で、風貌はクマのような感じ。庶民的である。

対する朝吹真理子さんは良いところのお嬢さんという感じの慶應義塾大学の院生、父親は有名な詩人、大叔母が翻訳家、その他親族に有名人多数のサラブレット。

僕は西村賢太氏の苦役列車は現実的な、地に足の着いた視点から面白く読んだのだが、朝吹真理子さんの「きことわ」に関してはそんなに印象に残っていない。

寧ろ前年に書いてドゥマゴ賞を受賞した朝吹さんの「流跡(りゅうせき)」を手にとって読んだときに強烈な印象を覚えたのである。その紡ぎ出される不安定で美しい「世界」の虜になったのだ。

 

 

 

最近は全く新刊が出ていなかった朝吹真理子さんであるが、2018/06に新刊「TIMELESS」が出版されたようである。早速アマゾンで注文したので、読んだらこちらのほうも感想を書きたい(評判が良さそうである)。

 

 

 

 

さて、久しぶりに「流跡」を読み返してみたのでその感想を書きたい(以前に買った単行本は実家に置いてあるので文庫本の方の感想である。つまり僕は流跡が好きで2冊所有しているのだ!)

 

 

 

「流跡」のあらすじ

 

この本に「あらすじ」というものがあるのか?読み始めると何とも名状しがたい「世界」が広がっているのだが、ストーリーは今ひとつ掴めない。

強いて言えば、大きく3つの構成部分からなる。

1つ目は日本の中世辺りのイメージがする、主人公が厳島神社を想起させる社の祭典から小舟に乗って逃れ、いつしか夜舟の船頭になって、無味乾燥な生活を送っているある日に水脈を過ち、生とも死ともつかぬ状態になるストーリー。

2つ目は主人公が現代のサラリーマンで、子供のことばの発達が遅いことを気にしている、そのうちに夢か現か住んでいる町の焼却炉の大きな煙突がクローズアップされ、金魚がその廻りをえごえご踊るストーリー。

3つ目は再び1つ目の世界に戻ってきたものの、イメージとしては明治、大正辺りの精錬所の廃墟がある島で、波止場で迎えの船をじっと待つストーリー。

 

さて、ここで作者の朝吹真理子さんに謝らねばならない。なぜならば僕の陳腐な言語力と読解力でこのような陳腐なストーリー説明をしてしまうと、作品までもがつまらないものだと思われかねないからだ。

しかし、この本を読んだ方は分かると思うが、ストーリーを説明するのが非常に難しい。そこに打ち出されている「世界」は脳で感知できるのだが、パッチワークというべきか、シュルレアリスム小説というべきか、スラスラと説明するための「言葉」が思い浮かばない。小説を読んだが、逆説的に小説を読めていないのである。

ストーリーに関しては文庫本の巻末に四方田犬彦氏の美しい解説があるので、それを参照していただきたい。

 

 

 

「流跡」の気に入った場面

いくつか、自分の気に入った場面を引用する。このような普段あまり使わない日本語に僕は五感が刺激された。と同時に、現代にあるものと古いものが一緒くたに存在し得ている世界というものに面白さを覚えた。

 

 

〜白い紙に繋留されていたはずのひとやひとでないもののひしめきが本から消える。跡形もなく。白に白上がりの染め型をかけたようになって判読ができないのか、光学的にみえないだけで、なにかが確かに存在しているのか。〜(中略)〜細胞液や血液や河川はその命脈のあるかぎり流れつづけてとどまることがないように、文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか。綴じ目をつきやぶってそして本をするりぬけてゆく。流れていこうとする。はみだしてゆく。しかしどこへ〜

 

 

〜もののにおい、ひとのやけるにおい。
いくら馴れていても暑い夜には臭気で鼻を削がれる。風にのってあたりの音やらにおいやらが川端に滞留する。運ばれてくる海のにおい。汚泥のにおい。荼毘所が近いからか、いつもひとのやけるにおいがする。あるいは魚の焼ける、このしろのにおいであるかもしれない。いずれにせよ臭気に変わりはない。魚鳥のにおい。三味の音にまじる女の白粉のにおい。鉄漿のにおい。屋形船がぎいぎい鳴っている。性愛の音であるらしい。(中略)

客をのせ、頼まれたところまで運ぶ。それで日銭を稼ぐ。客はなにもヒトには限らない。ときによって様様かわる。めづらかな爬虫類、剥製、USBメモリ、密書の入った文箱、スーツケース、厳重に梱包された板きれのようなもの、あるいは生あたたかな風呂敷包み、ダンボール箱、夜更けに運ばねばならないものである以上、たいていはよからぬものに違いはないのだ。〜

 

 

 

〜降りるべき市に着く。陽はさんさんとして空は澄み渡っているというのにバスのステップを下るなり雨がわっと振りだし、ロータリーに滾りおちる。雨だれに陽が反射し、ビルやタクシーの窓ガラスにも光がはね返って光度がきつくなり、閃揺をおこす。突然のどしゃ降りにロータリーを行き交う人むれがわっと拡散し気配がたちどころに失せる。煙突をさがしてあたりをみまわすと古ぼけたビルの間からすうとあらわれる。不揃いに建ちならぶはざまから、それが陽にひかって燦燦と輝いている。その近さ。首をつっ張らせてみあげるのははじめてだった。これまでにない、触れられるほどの距離で、遥かてっぺんから白煙をくゆらしている。煙突に光がかがよい、ひたすら真白く、すべすべして、晴朗として、ゆっくりとカーヴをえがいて上方にのびている。陶然となった。もっと降れ、もっと、もっと。濃かな、すこしねとついた水滴がきりなく市を洗い流す。ふわふわと浮きたち、抑えがたいよろこびに浸されて、これはもう、いよよ免れがたいところまできたのかと、ならば、すべてを捨ててすぐにでも、罠とわかって誘れてやろうと、みごとに取り憑かれてやろうと、聳え立つ煙突に近づいた〜

 

 

〜また性懲りもなく身体をもち、波止場にいる。はやく水にもどろうと海にひきもどろうとしても、水になりたいと水を痛いほど感じるその皮膚が邪魔でいつまでも海にもどれず、身体は水圧をかえすようにしずかに脈を打っている。うつらうつら午睡して汽船が着くのを待つ。〜

 

 

 

稠密な言葉で綴られた文章の完成度の高さもさることながら、言葉、或いはそれらの集積であるところの文章が持つある種の「匂い」だったり「触りごこち」が非常に印象的である。

また中世の夜にUSBメモリを乗せて船頭をしている男の風景や、市の中にある大きな「塔」、廃墟となった精錬所のある島の波止場、といった風景が、どことなく懐かしく、ヴァナキュラーな絵画を見ているような視覚的な刺激もする。

 

 

 

とっ散らかったものと「言葉」とのパラドックス

 

そんなパッチワークみたいな小説が面白いのか?と思われる方もいらっしゃるかと感じるが、一つ一つの場面に使われている言葉の美しさ、適切さ、そしてその言葉によって想起され立ち上るいくつかの世界の幻想性が、この作品は格別と思われる。

何か、展覧会で絵を見ているような印象にかられる。一人の作家の、色々な時代の違う多種多様なモチーフの作品群を「美術館内を歩く」という事によって得られるシークエンスにより、断片から全体が、おぼろげながらも作家の全体像が脳内に写像として結ばれるのと同じように、この作品は一つ一つの場面がもう既に「完璧な作品」であり、「流跡という本を読む」というシークエンスを通じて、おぼろげながらその世界の全体像が脳内に結ばれるのだ。

 

流跡(りゅうせき)とは流れの跡と書く。流れは幾重にも重なって微かに跡を残していく。多分朝吹真理子さんの頭の中は理路整然というよりかは、とっ散らかっているのではないか?とっ散らかった幾筋もの「流れ」が存在していて、それを纏めようとしたのではないか?

一般的に、そのとっ散らかったものを「言葉」として纏めようとするときに人間は「理屈」をつけたくなる。

言葉というものは極論を言ってしまえば、「無意識」に相対する「意識」に他ならない。「意識」は理屈であり、理性、理論である。

AならばB、BならばC、故にAならばC、QED。といった具合に。しかしながら、この作品にはそのような痕跡は巧妙に隠されている。

我々人間の思考というものは必ずしも「言葉」≒「意識」によって思考されていない。蓋しイメージとしては言葉は氷山の一角であり、その下には言葉にならない、名状しがたい「無意識」の概念が存在する。

 

「流跡」はそんな無意識の混沌とした概念を朝吹真理子というフィルターを通して、美しい言葉に変換された、或いは変換途中の気配を感じさせる、そんな作品であると僕は思う。まだまだ言語化されていない「ヌルヌルした何か」がこの作品から立ち上ってくるのはそのためであろう。その匂いや、味、手触り、音、かたちを見聞きするのは逆説的に最高の「読書体験」と言えるのではないだろうか?