嗅覚というのはとても不思議なもので、ある「匂い」を嗅いだ瞬間、およそ失われていたと思っていた記憶の断片を瞬時に呼び起こす。そして直後にマドレーヌを思い出す。ああ、それはマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のマドレーヌの事だったと。嗅覚によって想起される過去の思い出、これを「プルースト効果」と言ったなぁなどと。
女性社員Aの香水は?
いつものように満員電車でモミクチャにされながら、会社に向かう。席についてパソコンを起動していると、斜向かいの席に座っている若い女性社員Aが「おはようございます!」と出勤してくる。
この女性社員Aはいつも席につくと、携帯を取り出しおそらくは彼氏からのメールをチェックしてから、おもむろに「ムーミン」の柄の付いた布製のカバーをつけた、おおよそ500mlペットボトル大の「飲み物」を取り出す。布製のカバーをつけているから、中身はいったい何の飲み物かは不明なのだ。飲み物であることは分かる。何故なら、仕事中に彼女がよくキャップを開けて静かに口に含んでいるからだ。
女性社員Aはその「飲み物」をまるでワインを熟成させるかのように、机の上にそっと寝かす。立たせるのではなく寝かすのだ。その仕草が僕にとってツボで、僕は密かに「この女性が飲んでいるのは魔法の水なのではないか?寝かせることによってその養分を引き締め、コクを出しているのではないか?」などと思っていた。
僕は人と話すことがあまり得意ではないので、そんな「ムーミン柄の布で覆われた謎の飲み物」について長らく質問できずにいた。
そんな折、女性社員Aと立ち話をする機会があった。昼休みにエレベーターが来るのを待っている時に「ミヤガワさんはいつもサンドイッチだけでお腹が空かないんですか?」と質問されたときの事だ。
僕は「いやぁ、たくさん食べると午後眠くなっちゃうし。お腹は常に空かせておくくらいの方がいいんだよ」と言った。
実際僕はサーチュイン遺伝子が活性化する事を願い(常に腹八分目くらいにしておくと、常に若くいることができる、という研究結果がある)、食事はいつも腹八分目ならぬ、「腹七分目程度」を心がけている。それ以外にも理由があって、たくさん食べると頭が働かなくなる、眠くなる、そもそも歳を取るとたくさん食べることが出来ない、等が挙げられる。
「よく持ちますね、私なんかいつも間食しているのに」とエレベーターに乗り込んで話す。
「あの、謎の飲み物は何?」と僕は聞いてみた。
「謎の飲み物?」
「あのムーミンの布で隠れたやつ」
彼女は弾けたように明るい顔をして、「謎でもなんでもないですよ。あれは給湯室で入れた冷水をあの中に入れているんです。」
「なんだ、そうか。てっきり謎の飲み物かと思った。隠しているからさ」
「あはは」
僕は女性の持っているデリカシーみたいなものを感じた。つまりはこうだ。僕のような野郎であったら、天然水のペットボトルを何度も使いまわすのを他人に見られても恥ずかしくはない。例えば、その日に飲んだペットボトルの空き容器を会社の机に置いておき、次の日の朝に洗って給湯室の水を入れる、という芸当だってできる。
しかし女性がそれをやったらどうなるか?ちょっと「不潔」と思われてしまうかもしれない。例えペットボトルをよく洗っていたとしてもだ。
だから、そのような行為自体を「ムーミンの布」で隠すのだ。
彼女はそういった人間の機微を感じ取ることが出来る、よく出来た女性だと思った。
そして、エレベーターを降りる瞬間、前を歩く女性社員Aから「いい匂い」がした。その瞬間僕は「イッセイミヤケの香水だ」と気づいた。ウリ科の植物のような、清新でフレッシュな匂い、大人の女性が纏うのに最も適した、甘くもありながら気品に満ちたそれでいてさりげない匂い。
イッセイミヤケの香水は瞬時に5年前の春に表参道で出会った女性を僕に想起させた。僕はこのために女性社員Aに「なぜ、ペットボトルを寝かせるのか?」という第二の質問をききそびれてしまった。
春の表参道の歯医者でよい香りのする女性に出会った
5年前、僕は表参道に住んでいた。しかも家賃5万で1LDK。嘘かと思うかもしれないが本当である。その頃の僕はとある小さなシステム請負会社に勤めており、その会社の社長が表参道に代々土地を持って住んでいた。その社長のご厚意で、社長の住んでいるビルの一室を貸してもらえる事になった(ただし、僕の部屋は一ヶ月に2回は各々の現場に勤務している社員7名が集まって社内会議を開く場所となった。また下の階には社長夫妻が住んでいるのでいつ出くわすか、気が気でなかった)。
表参道にはおよそ僕の生活レヴェルとは相容れない様々な店があった。数々のきらびやかでオシャレなお店があり、とてもじゃないけれど一人では入ることは出来ない。美容室に行くのも勇気がいった。表参道や原宿あたりには腕のよい美容師がいて、そこに通う客というのもまたオシャレな人間であろう事は容易に想像がついた。
また食費もバカにならなかった。近くにピーコックストアがあったが、明らかに郊外のピーコックストアよりも値段が高かった。ましてや紀伊国屋などは足を踏み入れることすらはばかられた。
当時の僕は仕事も半人前で安月給、かつスーツは量販店の安物、革靴は8,000円くらいの安物、休みの日の服装はユニクロといった具合で、このような人間が表参道に住むという事はなかなかに違和感があった。
そんなある晴れた春の日、急に僕は歯が痛くなった。ネットで近くの歯科を検索して近くに歯医者がある事を確認した。流石に表参道といえども歯医者は保険内の治療ならば高くはないであろうなどと思いながら、銀行の近くにある歯医者に駆け込んだ。
受付を済ませて、待合室で待っている時に、かすかによい香りがした。隣に座っている若い女性の匂いだった。
20代後半くらいだろうか?目鼻立ちのはっきりしたとても美しく、品性が感じられる女性だった。着ているものも落ち着いた雰囲気で僕は一瞬で好感を持った。彼女が受付に呼ばれて立つ時の姿勢、特に肩のあたりがまるでバレリーナのように凛として洗練されていた。
僕はこの女性がどのようなバックグラウンドであるか?妄想してみた。
多分彼女はこの表参道、南青山界隈に住んでおり、昼間は一流の大企業で働き、夜は自分の時間を大切にする、例えば読書をするとか、クラシック音楽を聴くとか。休日は近くの有名なバレエ教室でバレエを練習する。そしてたまには表参道のブティックで質の良い化粧品やら、趣味の良い洋服やらを買いに出かける。そして今日は定期的に歯のクリーニングをしてもらいに来ている(ちなみに虫歯は一本もない)。
僕がそんな妄想をするくらいに、僕と違って彼女は「表参道という街に合っている」感じがした。と同時に彼女が纏わっている香水は一体どこのメーカーのものだろうか?という疑問が湧いてきた。
僕がそんな事を、つまりは香水のメーカーがどこのものか?などと考えることは初めての事だった。ただ、その彼女の姿やいでたちから、表参道=彼女の纏っていた香水のイメージの図式が成り立っていた。
この日から僕は自分のファッションに多少気を使うようになった。美容室も恥ずかしい思いを我慢して、なるべく評判の良い表参道の美容室に行くことにした。スーツは細身のものを新たに買った。革靴はせめて3万円はするものを新調した。
僕も彼女のように表参道に溶け込みたかったのだ。
彼女の纏っていたのはイッセイミヤケの香水だった事に気づく
僕が表参道に溶け込む努力をしている内に、辿り着いたのがイッセイミヤケだ。表参道のA4出口を出ると、左側に根津美術館に通じる道があるが、この路面にイッセイミヤケの店舗が数店ある。ISSEY MIYAKE、ISSEY MIYAKE MEN、PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE、BAO BAO ISSEY MIYAKE、132 5. ISSEY MIYAKEなどなど。
僕はこのISSEY MIYAKE MENで時計を買ってから(過去記事参照)、イッセイミヤケに興味が湧いてきた。そんな折、ふらっと132 5. ISSEY MIYAKEに立ち寄った。「折り紙」のような前衛的な服を作っている店舗で、基本的には女性モノが多い。だから入るのにはとても勇気がいった。入ってみると店員さんも女性ばかりだった。ビクビクしながら店内を廻っていると、
「何かお探しですか?」
マルサの女のような髪型をした、美大卒みたいな感じのいかにも「服飾系」のイメージのする店員の女性が話しかけてきた。と同時に、
あの時の歯医者であの女性が纏っていたモノと同じ香りが微かにした。
その時に分かった。あれはイッセイミヤケの香水であった事を。
その日以来、イッセイミヤケの香水のイメージは表参道のイメージが僕の中で強固に定着し、同時に落ち着いた大人の女性のイメージとなった。
L'EAU D'ISSEY(ロードゥ イッセイ)香水の特徴
女性用はL'EAU D'ISSEY(ロードゥ イッセイ)と名前がつく。容器の形は基本円錐形。
(ちなみに男性用はL'EAU D'ISSEY POUR HOMME(ロードゥ イッセイ プールオム)と名前がつく。容器の形は四角柱。)
ロードゥイッセイとは「イッセイの水」という意味。
僕がこの匂いを嗅いだ限りで言うと、上記のような、なんとも言えない大人の女性の魅力が凝縮されているように感じました。と同時に自己主張は控えめで落ち着いた、まるでその名の通り水のイメージ。
加えて個人的には「表参道」とか「南青山」といった、少しシックで余裕のある大人の街のイメージです。このあたりは僕の記憶と強烈に結びついているものがありますね。
以下香水専門店ベルモより引用、
この香水の登場が、その後の香水界を大きく飛翔させるきっかけとなった。
オゾンノートというジャンルを確立し香水の可能性を広げた、天才調香師ジャックキャバリエの最高傑作にして、香水の一つの到達点。
革新を湛えた イッセイの水。香りもボトルも洗練を極め、文句のつけようのないフレグランスです。メロンやスイカの香りにも似ているオゾンノート。
トップからミドルはスイレン、シクラメン、フリージア、ローズウォーター、カーネーション、白ユリなどが、春先の森林にたたずむような安らぎと清廉を与えてくれます。
ラストはオスマンティス、ムスク、チュベローズ、アンバーなどが、官能の中に、優しさ、穏やかさを加えたロマンティックな甘さで、あなたをフワリと幻想の世界へ誘います。円錐のボトルも香りと調和していて素晴らしい。マライア・キャリーも愛用。必ずストックしておきたいマストアイテムです。
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