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ミヤガワ日記

ピアノや読書を中心に、日々の気になったことを書いていきます

大人の場面緘黙症は治るのか?人見知りとの違いは?


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この間、日テレの世界仰天ニュースを見ていて、場面緘黙症が取り上げられていたので、飲み会などで一言も話せない僕も思うところがあり記事にしました。

 

場面緘黙症とは

場面緘黙は、ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象である。子供が自宅では家族らと問題なく会話をしていても、学校や幼稚園など家の外では全く、あるいはそれほど話さず、誰とも話さないという例は多い。そして、その子供は非常に内気な様子に見え、グループでの活動に入りたがらなかったりする。たいていの場合、発話以外の、表情や動作やその他のやり方であれば、人とコミュニケーションを取ることができる。また、脳機能そのものに問題があるわけではなく、行動面や学習面などでも問題を持たない。また、強い不安により体が思うように動かせなくなる緘動(かんどう)という症状が出る場合もある。

単なる人見知りや恥ずかしがり屋との大きな違いは、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があるという点である。

 

 

場面緘黙症 - Wikipedia

 

人見知りとは違うのか?

wikipediaによると、上記のように人見知りや恥ずかしがり屋とは違う、と書いてあります。また、僕が見た「世界仰天ニュース」では人見知りとの違いについて、「人見知りは最初の内は相手に不安を感じて話せないが、慣れれば話せるようになる」との事。対して場面緘黙症の場合、ある特定の場面で話せなくなるとの事。

私見ですが、場面緘黙症の場合は「ある場面で人見知りがずっと続いている」というイメージでしょうか?

 

発症率はどのくらい?

wikipediaによると、「現状ではあまり明確になっていない」と記載がありますが、世界仰天ニュースによると、元の出典は不明ですが0.15%の割合で存在するとの事。

私見ですがこの数字はそれほど大きくないと思いました。ただ、普段生活をしていて「人見知り」の人も場面緘黙症のイメージで見てしまっているので、そのように感じるのでしょう(人見知りも含めたら日本人の半分位は人見知りになってしまいそうですからね笑)。

 

子供だけ発症するのか?

wikipedia、世界仰天ニュースによると2〜5歳の間に発症する、との事。その後の追跡調査はあまりエビデンスが無いようで、発症した子供が大人になってからどうなるのか?という事が分かりません。

私見ですが(というより僕のことですが)、場面緘黙症はほうっておくと大人になっても治りません。下記に僕自身の症状を述べますが、「スイッチが入る」と全然話せなくなります。

小さいお子さんがこのような症状で悩んでいる親御さんは、早期にお子さんに治療を施す事を進めます。

 

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自分の症状

自分の子供の頃の症状、二重人格ではないかと悩んだこともある

僕の子供時代ですが、小学校の授業中の記憶が驚くほどありません(だから現在こんなアホなのか!というツッコミは無しで)。というのも、ほとんど一言も話さなかったからです。手を挙げて発言することもなく、半径1メートル位の小さな世界で生きていたような気がします。授業中に当てられたらどうしよう?といつも不安でした。先生からも通知表に「授業中に発言しろ」みたいな主旨の事を書かれました。

ところが、「人見知り」だったか?というとそういう訳でもなく、多少は人見知りではあったものの、休み時間は元気に一輪車に乗ったり、友達と鬼ごっこをしたりと、普通に話すことが出来ました。

何故授業中だけ押し黙っていたか?先生が嫌いだったという事もありますが、その場面の雰囲気で「話さない事を決めていた」と分析します。僕の中では大人になった今でも一貫して「話さないことを決めている、選択している場面」があるのです。

余談ですがそんな自分を先生はよく見ていたのか、通知表には先ほどの続きがあり「芯が強い」という記載もありました。

 

中学生になって僕は自分の内気な性格を変えよう!と努力しました。授業中でも積極的に発言をするようになりました。「人前で注目される事」これはなかなかのストレスでしたが、友達も沢山出来、ある意味人生で一番のリア充時代だったような気がします。
なんと文化祭で「私の主張」というステージに立って自分の主張を3分位スピーチする機会もこなしましたし、合唱コンクールのピアノ伴奏もこなしました。

 

しかしながら中学で頑張ってしまったため高校は地元の進学校に通うことになりました。ここで僕は「元の木阿弥」になります。またもや授業中に発言する事はできませんでした。周りの人が皆優秀に見えて、怖気づいたという事もありますが、元来の緘黙症の症状が出たのだと思います。

僕は音楽をやっていたので、合唱コンクールのクラス実行委員になりました。毎回クラスの人の前で「合唱をやるので放課後○○に集まって下さい((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル」と発言するのさえ苦痛でした。発言している最中は視野が狭くなり、鼓動が早くなるのを感じました。またもや「半径1メートルで生きている自分」を感じました。

ところが、仲の良い友達とは普通に話せるのです。例えば1:1で話す時は僕は大声を出して笑う事さえあったのです。そこらへんにいる高校生と変わりない感じでした。

ただ、カラオケは全然ダメでした。今でもカラオケでは絶対に歌いたくありません。自分の声に、一挙一動に注目される、という事がどうしても受け入れられないのです。その場を支配する人間になりたくないのです。

この事は以前のエントリ

 

piano6789.hatenablog.com

 でも触れました。大好きな音楽をやるにしても、大勢の前だと萎縮します。

 

 

ただ、思春期になるとこんな自分を客観的にメタ認知する能力がついてきます。ここで悩んだのは「自分は親に対する態度、友人A君に対する態度、授業中の態度全てが違う、二重人格ではないのか?」という事。一時期真剣に悩みました。自分は人によって態度を変える最低の人間だと思い詰めたこともあります。

そしてこの問題は解決しないまま大人になってしまいました。

 

 

大人になってから現在の症状

東京の大学に入ってからも似たような症状が出ていました。僕の大学の校舎にはすり鉢状の大きな教室が2つあったのですが、そこに入るのにはとても勇気がいりました。これが場面緘黙症と関係があるのか?という気がしてきましたが、とにかく注目されるのが嫌という、ある種の自意識過剰な状態だったと思います。誰も自分の事なんて見ていないのに。

 

大人になって就職してからは、飲み会が全然ダメです。全然話すことが出来ません。このあたりから人の話を聞いているフリというか、人の機嫌を損ねないように相槌を打つようにしたり、いつも笑みを絶やさないようにしたりする処世術を身に着けました。

以前勤めていた会社は社員が6名位のシステム運用会社でした。月に2回位帰社日という日があり、それぞれの現場に出ている社員が集まって会議とその後飲み会を行うのですが、5年位その会社にいて、会議でも飲み会でも僕が全然話さないので社長に「お前が話さないから何考えているか分かんねえよ。話せ!」と何度も怒られました。

それでも話せないのです。

社長の友人からは「お前は精神薄弱者だから」などと言われる始末でした。

しかし、僕は彼らの事を嫌っていた訳ではありません。飲み会等の場面になると自分自身でも不思議と「押し黙る」事を選択してしまうのです。飲み会などでは自分に対するお説教もよくありましたが、反論することも出来ず、終わってみるとただ心の中に諦観が積もっていくという感じでした。

 

さて、一言で飲み会といっても、本当に少数の(2〜3人)の友人同士の飲み会では僕は寧ろ饒舌に喋る位でした。彼らから見れば僕は「ふざけた奴」と写っていると思います。自分でもその変わり身の速さに驚愕しますが、やはり二重人格なのでしょうか?

多分場面緘黙症を患っている人はこの二重人格的な自分に、自分自身も気づいているはずです。

多分ですが、その時の「つかみ」みたいなものが重要で、最初に話す事が当たり前だと思っていれば、自然と場面緘黙症のスイッチは入りません。

 

余談ですが、以前の会社の社長に連れられて渋谷のスナックに行ったことがあります。はっきりいってこんな所に好き好んで来る人が僕は信じられないです。僕の嫌いなカラオケがあり、見ず知らずの女性と話をしなくてはいけないなんて僕にとっては拷問でした。

しかしその様子を見たスナックのママが言った一言が今でも鮮やかに蘇ります。社長が「こいつ喋らなくてつまらないでしょう?」と言うと、

「ミヤガワさんは2人だけで耳元でささやくタイプなんだよ」と。

 

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話をしないことによる弊害

「コミュニケーション」という言葉が僕は嫌いです。というのも、近年就職でも転職でも馬鹿の一つ覚えみたいに「コミュニケーション能力のある人求む」みたいに喧伝するので、僕のような場面緘黙症の人間や、人見知りの人間、コミュ障の人間が相対的に価値のない人間とみなされるフシがあるからです。

コミュニケーションという言葉が嫌い、と書きましたが、正確に言うと「コミュニケーションという言葉が嫌いな自分自身が嫌い」ですね。深層心理では僕は「コミュニケーション能力が高い人間になりたい」と思っています。

確かにコミュニケーションが出来ないと仕事を円滑に進める事は出来ません。僕も仕事中は頑張って「報告・連絡・相談」を欠かさないようにしていますが、それでもリーダーになるような器はないなぁ、と思っています。

 

コミュニケーションは何も「話すこと」に限定されませんが、コミュニケーションツールの中で一番重要なのはやはり「話すこと」であることは否定出来ないでしょう。

大人の場面緘黙症の人間はこの「話すこと」や「話す機会」を失っていることを厳粛に受け止めるべきです。というのも僕はアラフォーですが、人と話をする機会があまり無いことで記憶力や、認知能力、論理的思考力が一般の人より劣っているような気がするのです。

咄嗟に言葉が出てこない、話をし始めるが自分が何を言っているか分からない、言葉を瞬時に頭の中で組み立てるのが難しい、といった症状が出ています。

もちろん、これは場面緘黙症の人間全てに言えることでは無いと思われます。僕自信の能力が元々低いという可能性もありますが、話す機会を損失していることは事実です。

僕も小さな頃は他人の話を聞いて、それに対していつかは話そうと思って頭の中で「自分はこのように思う」とか「こう考える」というイメージを持っていました。

それがいつの頃からか「どうせ自分は話さないのだから、自分の意見を持っても無駄」と諦めと共に思うようになり、自分の意見や考え、思いを言語化しないで生きるようになりました。

結果として、「自分自身のアイデンティティの無い空虚な人間、いつも自信がなく世間に訴えかける事が出来ない人間」になっていました。

 

緘黙症は治るかどうか分からないが、ブログを書こう

僕はブログを始めた理由として、過去のエントリ

 

piano6789.hatenablog.com

 

を見ていただけると分かりますが、一番はお金が目的でした。

しかしながら「ブログを書く」という行為がかなりの脳トレになっていることに最近気づきました。僕の場合、自分の伝えたいことを引き出すまでにかなりの時間がかかります。このブログも4時間ぐらいかけて書いています。

ああでもないこうでもない、あれ、ここの文章おかしくね?などと思いながら書いています。僕の場合、やはり普段人と話さないので文章を書くのに咄嗟に言葉が出てきません。しかしブログを書くことで普段人と話さない事のデメリットを補っているとも言えます。

場面緘黙症だからか、先天的に言語能力が低いからなのか分かりませんが、自分の場合言語による表現を避けていた、或いは軽んじていた部分があります。なので、十代、二十代は言語以外のノンバーバルコミュニケーションであるピアノ演奏や、建築の設計、絵を描く等の手段で自分の欲求を満たしていました(大学も建築学科でした)。

しかし、「思考を言葉にする」という作業が一番心が落ち着く事に気づきました。私見ですが思考を言語化するという行為は思考そのものを整理する行為であり、自分自身の心の安定をもたらします。

 

という訳で、大人の場面緘黙症は治るか分からないけれども、話す機会を損失している人間はブログを書くことがオススメです。

 

最後にまとめ

  • 大人の場面緘黙症は治るかどうか分からない、一般的には「慣れる」事が大事と言われている症状だが、いつまでたっても改善しないことがある。
  • どうしても話せない場合、相槌を打ったり、笑みを浮かべたりして他人に興味が有ることを示そう。
  • 私見だが、飲み会や会議では「つかみ」が大事。一旦話すことが当たり前になると、その場面では場面緘黙症のスイッチは入らない。
  • 私見だが場面緘黙症の人は話す機会を損失している事が多いと思うので、ブログを書く事や、読書をして思考を言語化することを意識的に行い、人と話す事によって得られる効果と同様の効果を意識的に作り出すことが重要。

 

読んでいただきありがとうございました。